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概要

孫呉の重臣。諸葛亮の実兄である。
諸葛亮と同様に知略に優れ、軍政の両面で孫権を大いに助けた。

生涯

『呉書』によると若い頃に都市に出て、多くの書物を読んで知識を蓄えた。後漢末の戦乱を避けて揚州に移住し、人の縁あって孫権に仕えることになる。その頃から既に諸葛瑾の名声は高かった。
外交官として重んじられ、孫権から劉備への使者役をたびたび務めた。荊州を巡って孫権と劉備の関係が悪化すると、外交は当時の軍責任者だった魯粛に任され、関係が改善すると再び諸葛瑾に外交が任された。

219年の関羽討伐の軍に諸葛瑾も加わっている。
222年、帝・曹丕の命で進軍してきた曹真夏侯尚の軍を迎撃した。孫権は諸葛瑾の用兵術に当初不満を持ったが、兵を失わなかったことを賞賛した。
226年、魏の司馬懿の軍を迎撃したが、敗れた。
234年、諸葛亮に呼応する形で合肥を攻めたが、成果は得られなかった。陸遜の冷静な指揮により無事退却することができた。

241年、魏への攻撃(芍陂の役)に参加した。この戦いの後まもなく諸葛瑾は病没した。

人物

弟と同様に体躯堂々たる人物だった。
知恵者なうえに温厚な性格だったため、人々は諸葛瑾に敬服していたという。

諸葛瑾は孫権の性格を良くつかんでおり、戒める時も直接言う事はなく、諭すような様子で取り成した。孫権と不仲であった朱治虞翻との関係も取り持っていた。
孫権からの信頼は厚く、孫権と諸葛瑾の関係は「神交」(意気投合した交際)と称され、孫権に直接意見でき、諫めることのできる数少ない人物であった。

弟の諸葛亮が有名すぎるがゆえに、賢弟愚兄のような扱いを受けるが、記録を見る限りでは諸葛瑾も非常に有能な人間であった。ただと違って呉は有能な人材が多いので、諸葛瑾が霞んで見えてしまうのだろう。

文官のイメージが強いが実際のところ彼は武官であり、晩年は大将軍にまで昇っている。自身が武官であることを理由に長らく国政に口出ししなかったが、孫権が「ぜひ遠慮なく私の間違いと正してほしい」と述べたため、諸葛瑾は政治的誤りを的確に指導したという。

次男・諸葛喬は父・諸葛謹に命じられて叔父・孔明の養子になり、蜀に仕えている。

逸話

宴席でロバに「諸葛瑾」と書かれ孫権にからかわれた事もある(息子の諸葛恪が上手く「諸葛謹の驢」と書いてフォローし、孫権も感心してロバを諸葛謹に与えたので大事にはならなかったが、それを見てこの子は利発すぎて家を滅ぼしかねない、と危惧、後年その予想は完全に的中することになる)。親子は「藍田生玉」として称賛された

「孔明の兄」という立場ゆえに、「蜀(孔明)と内通している」と疑われることもあったが、孫権は「諸葛瑾と私は終生の仲を誓った間であり、諸葛瑾が私を裏切らないのは、私が諸葛瑾を裏切らないことと同じである」と全く疑わなかったほどである。

劉備に仕えて以降の孔明とは何度か外交交渉で顔をあわせるが、前述の理由もあってか公の場面で会っても私的には会おうとはしなかったとされる。かといって兄弟仲が悪かったわけではない。

創作作品において

三国志演義

智謀に優れる人物と描写されているが、関羽に強引に丸め込まれたり、殺されかけたりとヘタレな印象が拭えない。

三國志シリーズ

弟ほどではないが、高い知力と政治力を持っている優秀な文官。

真・三國無双シリーズ

所謂モブキャラ。7に至る現在においても脱モブの気配はない・・・と思われたが
真・三國無双ブラストにてついに脱モブ化。容姿は面長で優しげな容貌の壮年男性であり、
雰囲気はどことなく弟の諸葛亮にも通ずるものがあるが、息子の諸葛恪とは性格の違い故かあまり似ていない。
将軍らしく軽装だが武装しており、また右肩には史実を思わせる驢馬の防具をつけている。

補足

前述のロバの逸話からか、蒼天航路に出たときの作画はあんまりといえばあんまりな作画だった

関連項目

諸葛恪

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孫呉 そんご

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