概要
227年生~263年没
子は諸葛尚と諸葛京がいる。
三国志演義では諸葛亮の正室である黄夫人を母親としているが、正史には記述がなく生年が227年と結婚から時間が過ぎているのもあり黄夫人が生母でない可能性もある。
利発な少年であったが、父・諸葛亮からは「早熟すぎて大成しないのではないか」と不安がられていた。
少年時に父が亡くすが義兄・諸葛喬(伯父・諸葛瑾の次男、諸葛恪の弟)も先に亡くなっていたため幼くして諸葛家を継ぐ。父の爵位・武郷侯を継承するが、父の名声もあって17歳で皇帝劉禅の皇女を妻とし騎都尉となり以後昇進を重ねた。
蜀末期は行都護衛将軍・平尚書事であったが黄皓の専横に対しては(やむを得ずと言う可能性もあるが)むしろ同調していたとも言われている。姜維との関係は悪く排斥に賛成している。
263年に鄧艾率いる魏軍が侵攻した際、綿竹にて迎え撃った。
一度は破っているが最後は子の諸葛尚と共に戦死した。(36歳没)
国内での評価は高かったが、鄧艾と戦って敗れたくらいしか目ぼしい出番がないため、実際の能力は不明であるが「親のために実力以上の名声を得ていた」と評価されることが多かった。また、敗北時に鄧艾からの降伏の勧告を拒否し、蜀と運命を共にしたという忠義の点については好意的評価が多かった。
しかし、綿竹の戦いで李球(李恢の甥)・黄崇(黄権の子)・張遵(張飛の孫、張苞の子)らの進言に聞き入れず鄧艾軍に蹴散らされたことや諸葛亮の息子でありながら黄皓の専横を許したことなどから最近では評価を落としている。