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概要編集

益州巴西郡閬中県の出身。


若い頃から劉璋に仕えていたが、敵対している張魯への備えとして、張松劉備を使って張魯に対抗させることを劉璋に献策した際、黄権は劉備は皇族での左将軍という立場から「招いたら一国に二人の君主がいる状態になる」と反対した。しかし、劉璋はこの進言を聞き入れず、黄権は広漢に左遷されてしまう。


その後、劉備が益州攻略を開始した際、周囲の郡県が降伏する中、黄権は城を堅守して徹底抗戦した。しかし、劉璋が降伏したことで黄権も劉備に降伏し、劉備は黄権を偏将軍に任命した。


黄権は劉備に対しても忠義を示し、張魯が曹操に敗れたと聞くと、黄権は劉備に「漢中を失えば益州を失う事になるでしょう」と進言し、劉備はそれを受け入れて黄権に張魯の救援に向かわせた。しかし、既に張魯は曹操に降伏し、漢中は曹操の支配下になっていたが、黄権は曹操が任命した各郡の太守達を撃破した。

また、定軍山の戦いでは、自らが計略を立てて夏侯淵を討つことが出来た。


荊州を守っていた関羽に討たれたことで劉備が敵討ちと荊州奪還のために兵を挙げたが、黄権は劉備を諫めるも聞き入られず、黄権をへの守りに備えさせた。だが、劉備は夷陵で陸遜に大敗し、それによって黄権は退路を断たれたことで止む無く魏へ亡命した。黄権の亡命を受けて、では彼の妻子を捕えるべし、という意見が上がったが、劉備は「黄権が私を裏切ったのではない。私が黄権を裏切ったのだ」と、黄権の妻子を処罰しなかった。


その後は黄権は魏に仕え続け、車騎将軍にまで出世するが、240年に死去した。


関連タグ編集

三国志 蜀漢 曹魏

劉璋 劉備

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