三国志の姜維
建安七年(西暦202年)に涼州にて誕生。
姜氏は代々「天水の四姓」と呼ばれる豪族だった。幼少時に郡の功曹だった父の姜冏が異民族の反乱鎮圧に従軍して戦死したため母の手で育てられた。
郡に出仕して上計掾となった後、州に召されて雍州刺史の従事となった。その後かつての父の功績が取り上げられ中郎の官を贈られ、天水郡の軍事に参与した。
『魏』から『蜀』へ
228年、蜀の諸葛亮が魏に対する北伐を開始して接近した際、天水太守の馬遵とともにその偵察に赴いた。ところが各県の降伏と諸葛亮への呼応を耳にした馬遵は、配下の姜維達も諸葛亮と内通しているのではないかと疑い上邽に逃亡した。
姜維らは彼を追ったが城内に入ることを許されなかった。冀県に戻ったがそこでも受け入れられず、取り残された姜維は行き場を失い蜀に降伏した。街亭の戦いで蜀軍が敗北すると、諸葛亮は西県の1000余家と姜維らを引き連れて帰還した。そのため姜維は以後魏に残った母と生き別れとなった。諸葛亮は「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮精密である。姜維は涼州で最高の人物だろう」「姜維は用兵に秀で、度胸があり、兵の気持ちを深く理解している」などと評しており馬良に比するほど姜維の才を高く評価し、倉曹掾・奉義将軍の官を与え、当陽亭侯に封じている。
裴松之が注で引用する東晋の孫盛の『雑記』によれば、姜維の母親は、姜維に魏に戻るよう手紙を書いたが、姜維は蜀で栄達するという大望があるため戻らないと返事したとある。
その後、諸葛亮の北伐に従軍し、中監軍・征西将軍に昇進した。234年、諸葛亮の死後、成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍を授けられ諸軍を統率することになり、平襄侯に進封された。以後も243年、鎮西大将軍・涼州刺史、247年、衛将軍・録尚書事と昇進を続け、蜀の軍事の中枢を担うようになる。
同年、汶山での異民族の反乱を制圧すると、隴西(現在の甘粛省南東)に進出して郭淮や夏侯覇らと戦いこの地の異民族を味方に付けた。姜維は西方の風俗に通じていることや自らの才能と武勇をたのみ、大規模な北伐の軍を起こして諸葛亮の遺志を遂げたいと願っていた。
だが大将軍である費禕(禕は示へんに韋)は賛同せず、姜維に一万以上の兵を与えることはなかった。習鑿歯の『漢晋春秋』によると、費禕は姜維に対し「我々の力は丞相に遥かに及ばない。その丞相でさえ中原を定めることが出来なかった。まして我々に至っては問題にならない。今は内政に力を注ぎ外征は人材の育成を待ってからにすべきだ」と語っていたという。
北伐
253年、費禕が魏の降将郭循に刺殺されると姜維は費禕の後を受け軍権を握り、数万の兵を率いて北伐を敢行した。254年、魏の狄道県長李簡の寝返りに乗じて三県を制圧し、徐質を討ち取った。翌年には司馬懿や郭淮との確執から蜀に降った夏侯覇らとともに魏の雍州刺史王経を洮水の西で大破した。王経軍の死者は数万人に及んだ。この功績により翌256年に大将軍に昇進する。しかし同年、鎮西大将軍の胡済が約束を破り後詰に現れなかったため、段谷で魏将鄧艾に大敗し(段谷の戦い)、蜀の国力を大いに疲弊させた。姜維は諸葛亮の先例に倣って、自らを後将軍・行大将軍事へと降格することで敗戦の責任を取っている。257年、諸葛誕が反乱を起こしたのに乗じて魏を攻めたが勝つことができなかった。
漢中は魏延が太守だった時代から諸陣営を交錯させて守備する防衛法を確立しており、曹真・曹爽父子らの侵攻を撃退した実績があった。
しかし、姜維は「諸陣営を交錯させて守備する従来の漢中防衛法は、防御力は高いが大勝は期待できません。諸陣営を引き退かせ、兵を漢・楽の二城に集中させた上で、関所の守りを重視して防御にあたらせ、敵が攻めてきたら遊撃隊を両城より繰り出して敵の隙を窺わせましょう。敵が疲弊して撤退した時、一斉に出撃して追撃すれば敵を殲滅できるでしょう。」と建議した。その結果、督漢中の胡済を漢寿まで退かせ、監軍の王含に楽城を守らせ、護軍の蒋斌に漢城を守らせた。また、西安・建威・武衛・石門・武城・建昌・臨遠に防御陣を築いた。
姜維は長年軍事に力を注ぎ内政を顧みなかった。皇帝の劉禅は宦官の黄皓を重用していた為、蜀の宮廷は黄皓に牛耳られていた。また涼州出身の姜維は、益州や荊州出身の人士で占められていた当時の蜀の朝廷内では孤立しがちであった。黄皓が閻宇と結託し姜維の大将軍職剥奪を画策した際には、当時蜀漢の朝政を担っていた諸葛瞻や董厥までが黄皓の意見に同調したほどであった。姜維もまた黄皓を除くよう劉禅に嘆願したが聞き入られず、身の危険を感じた姜維は、これ以後成都に戻る事が出来なくなった。その際に、姜維は趙雲ら蜀設立の功労者に対し侯の諡を送るべきと劉禅に進言し、蜀設立の功労者に侯の諡が送られた。
姜維の死、そして蜀の滅亡
262年、魏を攻めたが鄧艾に撃退された。263年、魏の司馬昭の命を受けた鄧艾と鍾会が蜀に侵攻してきた。姜維は剣閣で鍾会の軍に抵抗した。
しかし姜維と鍾会が対峙している間に鄧艾が陰平から迂回して蜀に進入し、綿竹で諸葛瞻を討ち取った。この知らせを聞いた劉禅は成都を攻められる前に鄧艾に降伏した。劉禅降伏の報を受けた姜維は、残念に思いながら鍾会に降伏した。(蜀漢の滅亡)将士たちはみな怒り、刀を抜いて石を斬った。
降伏後の姜維は、鍾会が魏に反逆する意図を抱いていることを見抜き、鍾会に接近して魏に反逆するように提案した。その目的は、まず鍾会を魏から独立させ機会を見て鍾会と魏の将兵を殺害し、劉禅を迎え入れて蜀を復興させようというものであった。鍾会は姜維の進言に従い、遠征に従軍した将軍たちを幽閉して反乱を準備した。だが胡烈(胡遵の子)らの将軍らが生命の危機を感じて暴動を起こしたため計画は失敗し、姜維は鍾会および妻子と共に殺された。享年63。
『三国志』蜀書姜維伝の注に引く『世語』によれば、魏兵が彼の遺体を切り刻んで胆を取り出したときその胆は一升枡ほどもある巨大なものであったとされている。
三国志演義
三国志演義の後半における主役であり、諸葛亮の後継者という扱いになっている。概ね史実に沿ってはいるものの、あくまで姜維は非の無い義将として描かれている。
評価
その行動を蜀への義挙とみるか否かで評価が180度変わる事が多い人物。魏を正当とする正史では当然のように単なる反逆者扱いであり、蜀贔屓の演義では義挙とされている。
蜀の学者であった譙周は、「仇国論」を書いた。この仇国論は、「因余」という小国と「肇建」という大国が存在し、その小国たる「因余」の学者が討論するという物語となっている。この学者たちは、大国の項羽と小国であった劉邦の故事を引用して、小国が大国に勝つには、様々な条件が合わさらないと難しいと説いている。つまり、暗に姜維の無闇な北伐を批判している。さらに宿将の張翼や廖化からも無闇な北伐を批判されている。さすがに姜維も思うところがあったのか「仇国論」が出て以後、北伐の回数を減らしている。
譙周の弟子であった陳寿は、「三国志」にて姜維を「文武両道と言える才能を兼ね備えてはいた。しかし、長年にわたって国力にそぐわない北伐を繰り返した結果、蜀の衰亡を早めた」と評している。陳寿は姜維の才能を評価しつつも、蜀を滅ぼした原因の一つとしている。
蜀においては鄧芝や郤正らに人間性を評価されていた。直接、姜維と相対した魏の鍾会・鄧艾も姜維の将としての才能を讃えている。特に鍾会は蜀を下した後、姜維を厚遇し、彼と組んで魏に反逆しようとまで企んだ。
吉川英治は偏外余録にて、結果論となるが――姜維のただ一つの欠点であったことは、孔明ほどな大才や機略にはとうてい及ばない自己であるを知りながらも、その誓うところ余りに大きく、その任あまりに多く、しかも功を急ぐの結果、彼の英身が、かえって蜀の瓦解へ拍車をかけるの形をなしてしまったことである。と、評し、何れが是であり非だろうと彼の多感熱情は蜀史の華であると結んでいる。
軍事方面での優秀さは疑うべくもないが、内政面・国家戦略面での評価は三国志関連のコミュニティではよく議論や論争のタネにもなる。
容姿
正史や演義に特に外見についての記述はないのだが、主役格諸葛亮の弟子というイメージからだいたい若い二枚目に描かれることが多い。(横山版や無双シリーズなど。)
一方で、ちゃんと年代を計算すると北伐の時は実は結構なジジイである。
真・三國無双における姜維
姜維(真・三國無双)を参照。
横山光輝三国志における姜維
吉川英治が執筆した三国志における姜維に沿っている。(そして、吉川が執筆した三国志は三国志演義に沿っているため、実質的に三国志演義の姜維に沿っている。)
SLG系ゲームにおける扱い
活躍した時代が末期なので、例えば光栄の初期三國志(Ⅱまで)では登場こそしていたが、シナリオが劉備存命時代しかなかったので幻の武将扱いとなっていた。初めてシナリオ当初から登場したのはⅢのシナリオⅥ、ちなみに孔明亡き後の話で、難易度は(武将数の問題もあり)高い。
能力値はさすがに高く、五虎大将、孔明亡き後では蜀ではダントツ。武力と知力がともに90近くある武将は大変珍しく、他には同時代の魏将の鄧艾くらいしかいない。
余談
中国語ではチアン・ウェイ(Jiang Wei)と呼ぶ。
姜維を単語登録してない場合「生姜+維持」または「生姜繊維」で変換した方が楽なため、一部のコミュニティでは(あくまでネタとしてであるが)「ショウガ」とか呼ばれることもある。