概要
荊州襄陽郡中廬県の人。元の名は「廖淳」。
正史に登場したのは荊州にて関羽の主簿を務めていた頃である。関羽が呉の呂蒙に敗れると投降したが、 劉備の下に戻るために自分が死んだというデマを流し、老いた母を連れて脱出した。その後、関羽の敵討ちに呉征伐に出ていた劉備と出会い帰参を果たす。
劉備が亡くなると、諸葛亮、姜維に従軍して数多くの戦場に出て武功を立てていく。
廖化は次第に昇進し、右車騎将軍・仮節・領并州刺史となり、中郷侯に封ぜられた。廖化が張翼とともに大将となった時、人々に「前に王平・句扶あり、後に張翼・廖化あり」と語られた。
蜀漢の末期では、老齢ながら蜀漢を支える要の一人となるも、263年、魏が攻めてきた時、姜維・張翼と共に剣閣を守備し最後まで抵抗したが、迂回した鄧艾によって成都が陥落したため降伏した。264年、洛陽に連行される途上で病死した。
三国志演義
三国志演義では、黄巾党の残党の一人として登場する。関羽が劉備の妻妾を連れて袁紹の陣営にいる劉備の元に向かう際、追って来た曹操達と一人で対面しに行った隙に同僚の杜遠が妻妾を拉致してしまう。それを知った廖化は杜遠を斬り、妻妾を関羽の元に連れ戻す。その際、廖化は同行を嘆願したが、賊出身の人物を家来にすることを嫌った関羽に拒絶されている。だが、劉備が荊州を手中にした頃に物語へ復帰し、関羽の主簿となる。 関羽が呂蒙に攻められ麦城へ逃げ込んだ時、使者として上庸の劉封・孟達へ援軍を求めに走ったが、要請を拒否されて成都に走っている。関羽死後に劉封らの処罰を劉備に訴え、これが孟達の脱走と劉封の処刑につながっている。
北伐の際には、司馬懿をあと一歩の所まで追い詰める場面があったが、司馬懿は分かれ道でわざと逃げ道とは逆の方に兜を落とし、兜を見つけた廖化はそれを真に受けて兜があった方へ行ったために取り逃してしまう。諸葛亮は一応司馬懿の兜を手に入れた廖化の戦功を評価したものの、「もし関羽なら(意図を見抜いて)司馬懿を捕らえることが出来ただろう」と、思い耽ることになる。
これは、今の蜀漢がいかに有能な将が不足しているかを物語らせるものであり、これによって廖化は凡将というレッテルを貼られる。
中国においては「蜀中无大将廖化作先鋒」という諺があり、直訳すると「廖化を先鋒とする」という事であるが、廖化程度の凡将を先鋒という重要な役割に就けざるを得ない蜀の人材不足振り、転じて凡庸な人物に大きな役目を与えざるを得ない人材不足の状況を嘆くという意味合いがある。
その後は、正史通りとなるが、三国志の発端となる黄巾の乱から蜀漢滅亡まで生きた数少ない人物となる。