概要
劉備が入蜀し、益州牧を兼任した時に書佐として取り立てられた。
その後、孝廉に推挙され、各地の地方官を歴任した。
漢中攻め(定軍山の戦い)にも参加し、趙雲の指揮下で戦い、曹操軍を大いに撃退したという。
諸葛亮の死後、姜維が北伐を計画すると、張翼はこれによく反対していたため姜維との仲は良くなかったが、北伐の従軍を命じられると仕方なくそれに従っていた。
左車騎将軍に昇進するが、魏の蜀侵攻が開始されると、張翼は廖化らと共に鍾会軍を迎撃するため陽安関へ向かった。だが、味方の裏切りにより陽安関は陥落、陰平から敗走してきた姜維と合流し、剣閣へ籠って鍾会軍を防いだ。しかし、剣閣を迂回した鄧艾軍により成都が降伏したため、張翼は姜維と共に鍾会へ降伏し、随行して成都に戻った。
姜維と鍾会がクーデターを起こそうとして失敗した際、張翼もこれに巻き込まれて殺害された。
三国志演義
劉備が入蜀を開始すると、張任・劉璝らが守る益州の要所・雒城の救援部隊として卓膺と共に派遣される。しかし、味方武将が次々と戦死したり投降するなど劣勢となり、張任が処刑された後、先に劉備軍に投降した厳顔・呉懿ら蜀の名将達が雒城の前で投降を呼び掛けたことで張翼らは勝ち目が無いと戦意を失う中、尚も降伏を拒絶し徹底抗戦の意志を見せる劉璝を見限り、彼を斬り殺して降伏する(吉川英治版『三国志』では、城門の上にいた劉璝を後ろから突き落として殺害している。吉川版を原作とした横山光輝版『三国志』でも同じ展開だが、突き落とした人物が張翼だとは明かされていない)。
その後は劉備・劉禅に仕え、諸葛亮に従い南征や北伐に参加する。
諸葛亮の没後も主力武将として蜀滅亡まで戦い抜いた。ちなみに、姜維と不仲になったという描写はない。