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後漢末期〜末期に活躍した武将政治家。内政や軍事で活躍し、最終的に劉禅を降伏させの平定に貢献した英傑だが、祖国からは反逆者扱いされ、混乱の中で殺害された。『三国志』魏志巻28「王毌丘諸葛鄧鍾伝」に王凌毌丘倹諸葛誕鍾会と並んで立伝されている。

プロフィール編集

生没年:?〜264年

名前:鄧範→鄧艾

字:士則→士載

子:鄧忠など

孫:鄧朗など


中国語ではトン・アイ(Deng Ai)と呼ぶ。

生年は不詳だが197年または195年などの説がある。

生涯編集

荊州義陽郡の出身。初名は鄧範(字は士則)だがのちに鄧艾(字は士載)と改めている。この初名の由来は12歳の時に「文は世の範たり、行ないは士の則たり」と書かれた陳寔(陳羣の祖父)の碑文を読んだためとされる。父は早く亡くなり12歳の時に汝南で屯田兵となる。その後、県に出仕して官僚となったが、吃音のためなかなか出世出来なかった。(時期は不明だが)曹叡の代に上計吏として都へ使者として赴いた時、司馬懿に謁見し、鄧艾の才能を見抜いた司馬懿は属官として登用し、さらに尚書郎に抜擢した。

鄧艾は、戦争に勝つためには農業生産力が必要であり、農業生産力を上げるためには灌漑が必要であると説き、建設費と収穫量を緻密に計算して具体的な計画書である『済河論』を提出した。これを司馬懿は受け入れて実行し、曹芳の時代の241年に運河は完成した。


長らく農政で活躍した鄧艾だが50歳を過ぎてから軍司令官としても頭角を現すようになる。249年に蜀の姜維が雍州へ侵攻してくると郭淮につき従いその侵攻を防いだ。

兗州刺史になっていた255年、毌丘倹や文欽が反乱を起こすと、司馬師の指揮の下で諸葛誕らと共にこれらを破った。

同年、雍州刺史の王経は洮西で姜維率いる蜀軍に大敗を喫し狄道城で包囲された。鄧艾は狄道に向かい包囲を解いて姜維を撤退させ王経を救った。翌256年の段谷の戦いでは姜維に大勝し、その後も幾度と攻めてくる姜維を全て破った。

263年、魏の大将軍司馬昭は蜀討伐の大号令を発し鄧艾は鍾会・諸葛緒と共に司令官を務め沓中に駐屯していた姜維を剣閣まで退ける。その後、剣閣にて姜維と鍾会は熾烈な攻防を繰り広げたが突破の糸口さえも見い出せなかった。


これを見た鄧艾には陰平道を迂回することにし、強行軍の末に江油城に辿り着くと太守の馬邈はあっさり降伏した。その後は蜀の首都・成都を目指し進軍し綿竹で諸葛瞻(諸葛亮の子)らを破り成都に至ると、恐れおののいた劉禅はたちまち降伏した。


蜀平定後、鄧艾は成都に駐屯し直ちに呉征伐の準備を始めた。さすがにその独断専行ぶりを不安視した司馬昭は衛瓘に命じ鄧艾を戒めさせたものの、逆に鄧艾は『春秋』を引用して反論する有様であった。そしてその独断専行ぶりは鄧艾に強い反感を抱いていた鍾会によって追い落とすため絶好の口実となり、逮捕命令を下され鄧艾は長男の鄧忠と共に衛瓘により逮捕された。鄧艾は自身が白起更に自身がかつて破滅を予言した呉の諸葛恪と同じ運命に落ちたことを嘆き檻車に閉じ込められ魏に移送された。その後、鍾会と姜維が起こしたクーデターを鎮めた衛瓘の命を受けた田続により父子諸共殺害された。享年は68歳または70歳とされる。

洛陽にいた他の息子たちは父と兄に連座して処刑され、妻や鄧朗(鄧忠の子)らの孫も西域へ流罪となった。


やがて西晋の時代になり、旧蜀臣の樊建や鄧艾の旧部下の段灼の嘆願に応じる形で273年に司馬炎によって恩赦が下され、名誉は回復され鄧朗らは帰還を許された。(処刑された人間の弁護は皇帝の誤りを述べるに等しい行為であり、当時は命懸けの行為であった。)


人物編集

任地の地図作りを好んでおり、当時としては珍しい趣味のため周りからは変わり者扱いされていた。しかし、本人は意に介さず「いつか役立つ時が来る」と言っていたという。


吃音でもあり、司馬昭から「(発音がうまく出ず、何度も言い直すため)お前はいつも『艾は、艾は』と言っているが、一体鄧艾は何人いるのかね」とからかわれた事もある。

ただし、彼は即座に「世の人は『鳳(鳳凰)や、鳳や』と褒め称えますが鳳が沢山いる訳ではありますまい」と論語の一説をもって切り返し、その頭の回転の良さに感心した司馬昭は以前にもまして彼を重用するようになった。


性格は部下だった段灼にさえも頑固でせっかちと言われ、身分が上がるにつれますます傲慢になっていった。また無口で配下に対してほとんど口を利かず口を開く時は叱責する時ぐらいしか無かったともいう。また些細なミスでも処断したりしたため部下からは快く思われておらず。蜀平定後の独断専行ぶりもあって周囲から総スカンを食らい鍾会・姜維らの策略で誣告され司馬昭にも疎まれた挙げ句、衛瓘に捕縛され、最後は田続によって生涯を終えることになってしまった。


また同僚との付き合いも悪く、若い時からの仲間だった石苞や「忘年の交わり」を結んだ陳泰ぐらいしかまともに付き合う相手がいなかった。


一方、屯田兵たちには、鄧艾自ら鍬を持って農作業の手本を示すなど、自らが働くのを厭わない人物であった。そのため、傲慢な性格でありながら、兵の中には鄧艾を慕う者もいたという。謀反人として捕縛された時にも、一部の兵が鄧艾を救い出そうという行動をとった。また、鄧艾の死後、鄧艾の名誉回復に尽力した人々は、鄧艾の元で働いていた人物たちであった。

三国志鄧艾伝には、この時に名誉回復に尽力した先述の段灼の上奏文が残っている。「三国志」を著した陳寿から見れば、鄧艾は祖国を滅ぼした人物であるが、この上奏文を残したあたり、この文に納得いく部分もあったのかもしれない。段灼は上奏文の中で、鄧艾の罪とされた独断専行について「古来より、国境の外に出た軍は、自分の判断で行動して良いとされる。これに照らせば、鄧艾の行為は罪に当たらない」と弁護した。


魏の将にしては珍しく庶民からのウケも良く、今なお彼の名は吃音者を慰める例として挙げられる事も多いという。


フィクションにおける鄧艾編集

小説・マンガ編集

  • 三国志演義

性格は問題だらけだったが農民出身であると言われそこから立身出世を果たした事や、蜀を陥落させた将を悪く描きづらい事から演義での扱いもあまり悪くない。しかし諸葛亮陸遜司馬懿孫権らが逝去した後で登場する武将であるためイマイチ話題に上がりにくい。


演義では文官として知略や政治に長けるだけでなく、一騎討ちでも文鴦や姜維といった猛将と引き分けるほどの武勇を持つ。


単行本では60巻の後半のみ登場。蜀攻略戦のみが描かれている。元になった吉川三国志と同じく(演義や柴田錬三郎版では描かれた)逮捕後の鍾会や姜維との罵倒合戦や三人共倒れなどは描かれていない。


ゲーム編集

鄧艾(真・三國無双)


統率・武力・知力・政治いずれも高水準であり、総合値において全武将中トップクラスに強力なパラメーターを誇る。並の軍師より高い知力、並の猛将より高い武力を持つという、人外クラスの能力値に設定されているケースもある。作品によっては総合能力値で曹操・陸遜・周瑜らをも上回ることすらあり、五虎大将許褚魏延らが退場した後は文鴦や姜維と並び武力でも最強クラスになる。

早ければ210年代後半から登場する。義理は並で野望は高め。作品によっては勢力相性が曹操よりも劉表に近い。


戦いの時は来た

三国志大戦2 若き獅子の鼓動(Ver.2.1)より登場。所属勢力は魏。レアリティはSR。

大戦3においてスペック・計略が変更された。

三国志大戦2:コスト2.5 武8知9伏 計略「刹那の神速」

三国志大戦3:コスト2.0 武7知9伏 計略「隠密の神速行」

Illustration : 獅子猿



関連タグ編集

トウ艾(表記ゆれ)

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