概要
(?~260)
出身は潁川郡の許昌。父親は魏の司空陳羣、母方の祖父は曹操の王佐・荀彧という名門の御曹司。よく引き合いに出される荀顗は叔父(母の弟=舅)。また、司馬師・司馬昭とは親しい間柄だった。
青龍年間(233~237)に出仕。近衞の将校を何年か務めた後、外に出て并州の刺史となった。曹爽らは彼に賄賂を贈って異民族の奴隷を買おうとしたが、陳泰はまるで相手にせず逆に恩愛を以て統治したので、民も異民族も彼に懐いた。正始の末、中央に戻り尚書に任じられる。司馬懿の政変が起きた時には、皇帝を盾に許昌へ逃れるか迷う曹爽を止め、許允と共に帝を都へお返しするよう勧めた。
同年、雍州刺史に任じられ、前任者で上官でもある郭淮の下で姜維及び亡命した夏侯覇を打ち破り、蜀将句安を捕虜にした。司馬師時代も対蜀戦線で活躍したが、異民族攻伐の準備として遠い并州に徴兵指示を出したせいで戦役を嫌がった民が暴動を起こすなど、ミスも犯した(司馬師はこれを陳泰ではなく自分のせいだと言って庇っている)。
司馬昭が政権を取ると、亡くなった郭淮に代わって征西将軍・都督雍涼諸軍事に任命され対蜀戦線のトップとなった。同年秋に姜維が隴西に侵攻し雍州刺史の王経を大敗させると、鄧艾らを率いて速やかに進軍して孤立した味方を救い、姜維を追い返している。また、地方の大事を都に報告する際に時間が掛かり過ぎてその間に国内が不正確な噂で動揺してしまう状況を憂い、駅伝による迅速な中央‐地方の情報伝達システムを確立した。司馬昭はこうした処置を褒め、その舅の荀顗に向かって、「玄伯は沈着にして勇気があり決断力に富む。都督とはこうでなければな」 と激賞した。
だがこの翌年に中央に呼び戻されて尚書僕射となり(鄧艾・司馬望が彼に代わった)、呉の孫峻の撃退や諸葛誕の叛乱鎮圧に参戦しつつ、重臣として政治の中心にかかわった。しかし高貴郷公事件では司馬昭と意見を違え、この年に亡くなった。諡号は穆、司空を追贈されている。その子孫は陳泰の功績により爵位を与えられたが、西晋以後政治の表舞台に現れることはなかった。
隴西の戦い
陳泰の最大の戦功とされるのは、正元二年(255)の対姜維戦。この時陳泰は長安に駐屯していたが、姜維による三方向からの侵攻がデマであることを冷静に見抜き、守将の雍州刺史王経に軽率な進軍を控えるよう指示した。王経はこれに従えず洮水で姜維と戦って大敗し、狄道城に追い詰められる。陳泰は軽兵を率いて西行し陳倉・上邢に至ると、援軍の鄧艾・胡奮らと合流して方針を話し合った。鄧艾らは口々に「勢いに乗る姜維と戦ってはなりません、王経を見捨ててでも敵の疲弊を待つべきです」と進言したが、陳泰は拒んで言った。
「姜維が洮水で勝った後、狄道城など無視して東へ向かい、穀物を奪い異民族を煽動して隴西を荒らしまわっていたならば、諸君らの言うとおりだろう。だが奴はそうせず、ひとつの城の攻略に無駄に時間をかけて士気を萎えさせている。蜀軍は野戦と攻城で勢いを異にし、食料も途絶えかかっている。つまり、戦場の主導権が我らの側に回ってきたのだ。速やかに急行してこれを討つべきである」
姜維は南ルートに伏兵を敷いていたが、陳泰は高城嶺を超えて狄道城の救援に駆けつけ、蜀軍と戦って敗走させ城の包囲を解かせた。あと十日遅ければ守兵は兵糧不足で全滅していたという。この時涼州の州軍も到着したので姜維は引き上げた。
忘年の交わり
『三国志演義』では、255年狄道の戦いで鄧艾の才能に感服した陳泰は、彼と互いの年齢差を気にしない対等な付き合い「忘年の交わり」を結んだ、としている。
二人とも生年不詳で、どちらが年上でいくつ離れているのかは判明していない。鄧艾は197年生まれ説があり、陳泰も青龍年間初出仕から考えて210年頃と推定すると、鄧艾>陳泰で約十歳程度の違いであろうか。
麗しい友情に水を差すようだが、史実の狄道では上記の通り、鄧艾の見識に感服するどころか、彼の進言を却下して速攻策を取ったことで王経の救出に成功した。また二人が対蜀戦で共闘したのも、実のところこの戦と249年姜維戦の二回くらいなのである。
司馬昭との絶交
甘露五年(260)、魏皇帝曹髦が打倒司馬昭を唱えて挙兵、中護軍の賈充が部下に皇帝を刺殺させるという大事件が起きる。司馬昭は新帝を擁立する相談のため重臣・側近たちを呼び集めたが、ただ陳泰だけは来なかった。
司馬昭は尚書で陳泰の舅に当たる荀顗に命じて陳泰を連れてこさせた。陳泰は荀顗に向かって言った。「今の舅殿は、私以下です」 密室で司馬昭と会見すると、陳泰は「ただ賈充を斬って、天下に正道を示すべきだ」と告げたが、聞き入れられなかった。
陳泰の死がこの一件と同じ年であることから、病死ではなく不自然死とみる向きもある。だが、『晋書』石苞伝に「(石苞の)葬礼は魏司空陳泰の故事の通りにした」とあり、これがなかなか盛大なのである。同じく西晋の重臣の陳騫の葬儀も同様のスタイル。裏で何があったにせよ、司馬昭は陳泰の死に対して(少なくとも表面上は)悼む意思を見せている。
性格・能力
友人の武陔は司馬昭に陳羣・陳泰の人物比較を求められて次のように答えた。
「道理に通じて行い正しく、天下の風俗教化を行えるという点では父と比べて物足りませんが、優れた統率力を持ち、合理的で簡略、天下に功績を打ち立てるという点では父以上です」
当時の人は陳泰を同郡出身で縁戚関係の深い荀顗と並び評した。これは武将としての能力というより名士の家格の上での評価であろう。
世評によると、陳寔・陳紀・陳羣・陳泰という潁川陳氏四代は漢魏を通じた名士であったが代を経るごとにその徳が衰えた、という。政権中枢から離れていた前者二人に対し、陳羣は漢魏革命に協力して位を極め、陳泰は政権の担い手だった司馬一族と昵懇であったことを、暗に批判しているのだろうか。
関連作品
三国志大戦
大戦2時代、司馬兄弟や鄧艾らと共にver.2.1「若き獅子の鼓動」で魏軍のUCカードとして初登場。スペックは2コスト武7知7の騎兵、計略は雲散の睨み(消費士気4)。絵師は三好戴克氏。魏後伝のイベントにも出番がある。
大戦3では当初排出停止であったが、Ver.3.1「蒼天の龍脈」で復活。スペックはR・1コスト武3知4の天属性騎兵、特技に勇猛が追加され、計略は若き血の滾り(士気3)。レアリティ・コスト・武力知力・特技・計略と、兵種・絵師以外の全てが変更され、デッキ内での役割は大きく変わった。
計略の若き血の滾りは、デッキ内の魏軍武将の最大武力に応じて自身の武力を上昇させる単体強化。追加されたバージョンでは、ただでさえ1コスト騎兵の選択肢が数多い上、号令を主体とする魏デッキの中で手軽に神速状態となる条件を満たすことができず、あまり活躍の場がなかった。しかしver.3.5の攻城力の仕様変更により、魏でもR典韋やR許褚など高コスト超絶強化持ちを投入する流れになり、俄然使用率は上がった。礎のSR夏侯淵とも相性が良く、優秀な1コスアタッカーである。
ただし大戦2時代はコスト比武力、3では計略の兼ね合いの関係で、SR鄧艾とのデッキ相性はあまり良いとは言えない。
真三國無双シリーズ
真三國無双6より、モブ将として登場しているが、無双武将化は果たしていない。
6の晋ストーリーでは、牛頭山の陣地会話でモブながら司馬師にタメ口であったが、その後のステージでは大将軍となった司馬昭に対して敬語で話している。
7猛将伝では、護衛武将コスト14と高く設定され、戦闘技能の最大レベルも無双武将並の5と優遇されている…が、肝心の戦闘技能はなぜか敵軍召還である。