司馬昭とは
司馬昭(しば しょう、晋の太祖文帝、211年-265年)
中国語ではスーマー・チャオ(Sima Zhao)と呼ぶ。
字は子上(小説『三国志演義』では子尚)。
司馬懿の次男であり、司馬師の弟、晋の開祖司馬炎の父。妻に王元姫(文明皇后)。晋代に太祖文帝と追号される。
来歴
父兄の活躍中についての記述は少ないが、曹爽による蜀漢攻撃(興勢の役)に夏侯玄の副将として従軍したことや、曹爽一派を失脚させるクーデター(高平陵の変)に参加したことがはっきりとしている。司馬昭は曹爽一派の排除の計画は知らされず、変の前夜に初めて兄から伝えられたという。
255年に毌丘倹と文欽が反乱を起こし、司馬師が討伐に向かう中、司馬昭は洛陽を守備。反乱鎮圧後に死没した兄の後を継ぎ、司馬昭は魏の実権を握る(司馬師には男子がおらず、司馬昭の三男・司馬攸を猶子としていたが、この時司馬攸はまだ幼かった)。翌年大都督に任じられた。
257年、生前に司馬師排斥を掲げた夏侯玄と親しかった諸葛誕が寿春にて反乱を起こす(諸葛誕の乱)。
諸葛誕は反乱を起こすと、同僚で魏の五将軍の一人に数えられていた楽進の息子・楽綝を斬って呉に援軍を要請。
対する司馬昭は皇帝皇后を奉じて26万と号する大軍で反乱の鎮圧にあたった。
結果として反乱は1年以上も続いたが、呉の援軍として派遣されていた文欽が作戦を巡って諸葛誕に斬られるという事件が起こってからは、その息子の文鴦らの投降を受け入れ、反乱軍の瓦解に繋げた。
投降者が相次ぐ中、城から打って出た諸葛誕の戦死をもって反乱は終息する。
260年、皇帝の曹髦が遂に司馬氏打倒の兵を挙げる。
これに司馬昭の臣下であった賈充が軍を率いて対応し、部下に命じて皇帝を弑逆させるという事件が起きるも、司馬昭は(どういう意図があったかははっきりしないが)賈充を処罰することはなく、実行犯である成済とその一族を処刑するに留めた。
この反乱の際に曹髦は「司馬昭之心、路人皆知(天下を狙う司馬昭の野心は、道端の人でも知っている)」と言っており、この言葉は現在でも野心家の魂胆はバレバレだという意味合いで日常的に使われることとなった。
何がともあれ、稀代の大悪党と言われた董卓と同様の所業を行った司馬昭一派の行動は内外に多くの波紋を呼び、この後司馬昭は曹奐を新しい皇帝に擁立する。
征伐後の混乱によって鍾会、鄧艾、姜維らが立て続けに死亡するも、結果として蜀の皇帝劉禅が降伏したことにより、三国鼎立の世は終わりを告げる。
その間に相国・晋公・九錫を賜り、その翌年には晋王の爵位を賜るに至ったが、265年に中風のため逝去。
この後、司馬昭の後を継いだ長子司馬炎が曹奐から禅譲を受け晋を建国、やがて呉の皇帝で孫権の孫にあたる孫皓を降伏させ、三国時代に終止符を打った。
自身が地方を平定し、内部で権力の地ならしをした上で息子が皇帝になる、という行動様式はしばしば曹操となぞらえられる。
最終的に漢から魏、そして魏から晋(西晋)へと帝位が禅譲され、そして西晋も魏と同様に短命のうちに滅んだのは、ある意味で歴史の皮肉と言うべきかも知れない。西晋の滅亡後、かつて呉のあった江南に東晋が成立するも、司馬懿の四男・司馬伷の孫(司馬睿)による皇統であり、司馬昭・司馬炎の皇統は西晋と共に絶えている。
評価
兄と共に数多くの陰謀や政争を主導し、魏を簒奪する足場を固めたことから陰謀家・野心家として非難されることが多く、魏の皇帝である曹髦の殺害にも間接的に関わっているため、三国志ファンの中には司馬昭を腹黒な野心家と捉える人も少なくない。
その反面、司馬師に反乱を起こした毌丘倹は司馬師を宰相に相応しくないと批判する一方で、司馬昭を「忠義で寛大な人物である」と評価していたり、かつての上官だった夏侯玄の助命を兄に嘆願したり、諸葛誕の乱の際には投降してきた文鴦や呉の将兵を受け入れ、更には官位を与えたりするなどの度量の広い一面も見られ、徳義のある人物と評されることもある。
主な登場作品
真・三國無双シリーズ
詳しくは司馬昭(真・三國無双)を参照。
真・三國無双6から無双武将として登場。
ちなみに一般武将としては兄よりも早く登場している。
三国志大戦シリーズ
三国志シリーズ(コーエー)
「11」までは顔グラフィックが腹黒さ全開の表情だったが、近年の作品(「12」以降)では同社による真・三國無双シリーズの影響か、顔グラフィックが美形へと変貌しつつある。