概要
生没年:246年〜302年
在位期間:260年〜265年
太祖・曹操の庶子である燕王・曹宇の息子。つまり曹操の孫。
字は景明、または景召。
本来の名を曹璜(そうこう)という。
諡は元帝(げんてい)。
経歴
先代の曹髦が殺害されたため、帝位に即いた。しかし皇帝といってもこの頃はもう名ばかりであり、司馬昭の傀儡状態であった。
265年、司馬昭が死去し司馬炎が晋王を継いだ。
同年12月、当時20歳の曹奐は司馬炎に禅譲し、魏は5代45年で滅亡して晋(西晋)に替わった。
この時、司馬孚(司馬懿の弟)は退位した曹奐の手を取り、涙を流しつつ、今後も魏の臣下であると述べた。
退位後は陳留王に封じられ、鄴に移り住んだ。
八王の乱の最中の302年、早くも西晋が斜陽となる時代の中で57歳で死去した。
三国志演義
父親の曹宇が曹丕の子となっている。
「又召文帝子燕王曹宇爲大將軍、」(演義第106回より抜粋)
つまり、演義での彼は曹操の曾孫となるはずだが、初登場時の紹介文では「乃武帝曹操之孫、燕王曹宇之子也。」(演義第114回より抜粋)だったり、演義を取り扱っている書籍、小説、漫画などでも「孫」だったり「曾孫」だったりと記述にバラツキがある。
初登場は第114回。
傀儡皇帝としての即位・生活は正史とほぼ同じ。
しかし第119回で描かれる、司馬炎たちに禅譲を迫られる一連のシーンはかなり物騒なものになっている。
帯剣して自室にやって来た司馬炎の無礼な言動に何も言い返せずにいると、黄門侍郎・張節(架空の人物)が毅然と司馬炎に反論する。
しばらくの舌戦の後、しびれを切らした司馬炎の指示により張節は部屋から引き摺り出され、(司馬炎の)部下に殴り殺されてしまう。その一部始終を見ていた曹奐は涙ながらに跪いて詫びるが、彼自身には被害は無かった。
そして、賈充と裴秀に言われるがまま禅譲台を築く勅令を出し、禅譲の儀を行った、という流れになっている。
一方、禅譲後の司馬孚とのやりとりは正史と同じ。
陳留王に封じられ洛陽を追放されるものの、蜀の劉禅、呉の孫皓と同じく天寿を全うしたことが最後に記述されている。
余談
魏のラストエンペラーという立ち位置であるが、蜀の劉禅、呉の孫皓に比べるとかなり影が薄い…(両者のキャラが強烈なので余計に)。
先々代の曹芳から傀儡でしかなかったので影が薄く、これといった逸話も残されていない。逆クーデターを計って部下に殺害される曹髦が珍しいのである。魏史に「三少帝」として一纏めにされているのもむべなるかな…そのためか他の創作三国志で彼が登場していないのも珍しくないのが実情である。
また、三国志が書かれた当時は存命していたので三国志における記述は退位したところで終わっており、裴注で死亡事実が補われている。
八王の乱やその後の永嘉の乱といった乱世の中、彼の子孫は江南に逃げ延び、東晋に陳留王として封ぜられている。その後も宋と続き、斉に至って廃されるまで200年以上も続いていた。つまり、諸侯王として続いた方が長い。
関連タグ
司馬炎…禅譲した相手