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文鴦

ぶんおう

文鴦とは、中国三国時代から西晋時代にかけて活躍した勇将である。
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概要編集

三国志の登場人物。中国の三国時代から西晋の時代にかけて活躍した。

一騎当千の猛将神算鬼謀の軍師といった「英雄」がほとんどいなくなった三国時代後期において、勇将・趙雲の再来と呼ばれた男。

つまり三国志最後の英雄である。


彼は乱世に翻弄され続け、魏・呉・晋の三国に仕えることとなった。



魏の文欽の次子。文鴦の「鴦」(おう/おしどり)は幼名であり、文鴦は本名ではなく通名・渾名である。

本名は文俶(淑)。字は次騫。


「三国志演義」によれば、槍と鉄鞭を武器として使う。


余談だが、鮮卑段部に、段文鴦という人物がいる。文鴦から名を取ったという説もあるが、詳細は不明。段文鴦もまた猛将であり、五胡十六国という混沌とした時代に活躍した。


その生涯と所属勢力の流れ編集

魏⇒魏内の反乱軍⇒呉 ~毌丘倹の乱~編集

父・文欽と毌丘倹が魏の実権を掌握していた司馬師に反乱を起こし、文鴦は父に従った。

文鴦は進軍してくる司馬師の軍に対し、挟撃することを父に進言する。だが、文鴦が三度合図を送ったにもかかわらず文欽が呼応しなかったため作戦は失敗に終わり、一時撤退した。

その後、司馬師は文鴦の作戦が失敗したことを察知し追撃。

文鴦は果敢にも司馬師軍の追撃に応戦したが敵わず、父と共に呉への亡命を余儀なくされる。

しかしこの際に司馬師は文鴦の勇猛さに驚き、手術したばかりの片眼の病傷が悪化してしまい、死期が早まることとなった。


呉⇒魏 ~諸葛誕の乱~編集

魏の諸葛誕が司馬師の後を継いだ弟・司馬昭に反乱を起こすと、文鴦は再び父・文欽に従い呉軍として諸葛誕の救援に向かった。

しかし、文欽と諸葛誕は仲が悪く、二人は作戦を巡って対立し、遂には諸葛誕が文欽を斬殺してしまった。諸葛誕を恐れた文鴦は城を脱出しやむなく司馬昭に降伏。

以後、文鴦は司馬一族率いる魏、つまり後の晋(西晋)に仕える将となる。


魏⇒西晋 ~魏滅亡とクーデター~編集

265年に魏が司馬一族の手により滅亡、晋が成立した。文鴦は晋の初代皇帝・司馬炎の時代に平虜護軍となり、晋の勇将として異民族討伐などで活躍した。この討伐の中で、禿髪樹機能という凄い名前の鮮卑と戦っていたりする。


後に東夷校尉・仮節となり司馬炎に謁見したが、司馬炎に疎まれて免職させられる。


司馬炎の死後、291年に賈充の娘・賈南風が、時の権力者である楊駿らにクーデターを起こす。クーデターメンバーであり、諸葛誕の外孫で文鴦を恨んでいた司馬繇は、文鴦を叛逆者に仕立て上げると、三族皆殺しにした。ここに、三国志最後の英雄は命を落とす。


その後誕生した賈南風の政権も長く続かず、西晋は五胡十六国が血で血を洗う、暗黒の時代に包まれることとなった。



主な登場作品編集

三国志大戦での文鴦

文鴦



真・三國無双シリーズでの文鴦 (真・三國無双7からの参戦) ⇒文鴦(真・三國無双)

文鸯


関連タグ編集

三国志 趙雲

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