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概要編集

字は季彦(きげん)。郭配郭淮の弟)の女婿

毌丘倹の推挙により、曹爽の属官となる。その後、何晏によって賈充とともに昇進する。何晏の勧めた麻薬(五石散)の愛用者でもあった。五石散を飲むと、体温が上昇するため、体の火照りを冷ますため、服用者はしばしば屋外を徘徊していたという(これが「散歩」の語源とされる)。裴秀も、しばしば「散歩」をしていたと伝わる。


このように曹爽の派閥に属していたため、司馬懿によって曹爽が処刑されると免職となる。しかし、才能を認められたのか、後に復職し、司馬懿の子の司馬昭に仕える。司馬昭は、裴秀を信任し、進言を多く採用した。諸葛誕の反乱にも鎮圧軍として参加。


司馬昭の後継として、司馬炎を立てるように強く勧める。結果、司馬炎が跡継ぎとなったため、司馬炎は裴秀を非常に信頼していた。


皇帝曹奐に禅譲を迫り、結果として司馬炎はの皇帝となる。


晋でも引き続き政治家として辣腕をふるい、様々な諸制度を発案。最後は三公の一つ司空に任じられる。


271年に死去。元公と諡された。なお、死因が特殊であり、五石散を服用した時に酒を共に飲み、体温が急激に上がって死亡したという。ちなみに、裴一族からは、後に三国志に注釈をつけたことで有名な裴松之が輩出される(裴秀の叔父・裴徽の子孫が裴松之となる)


地図編集

裴秀は、「禹貢地域図」という地図を作成している。は中国の伝説上の皇帝であり、禹に貢がれた地域、すなわち中国全土の地図という意味になる。

当時の地図は実用に耐えない粗雑なものが多く、各地に軍を送ると、地図と実際の地形に食い違いがあり、軍が進めなくなることがあった。これを知った裴秀は各地の地理情報を集め、「禹貢地域図」を作り上げた。

残念ながら「禹貢地域図」そのものは現代では失われているが、南宋の時代に「禹貢地域図」をもとにした「禹跡図」という地図が作られている。「禹跡図」は石に刻まれて作られたため、現代でも状態良く残っている。

方眼により作られた地図で、方角・縮尺・距離など、非常に精度の高い地図となっている。


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