概要
(?〜289)
魏末~西晋武帝期における賈充党の高官。潁川郡の名門荀氏の傍流に生まれる。曽祖父の荀爽は「荀氏八龍」の中で最も著名であり、後漢朝で司空に昇った。
幼くして父を喪い、母方の祖父・鍾繇の下で養育される。幼年より非凡な文才を示し、曽祖父に擬えられた。また、類稀な絶対音感と味覚を有し、書画にも通じていたとされる。
魏の正始年間(239~249)に出仕するが、曹爽の凋落と同時に免官される。
曹爽の死後、曹爽の葬儀が行われる。しかし、この葬儀を利用して、当時の魏の実験を握っていた司馬一族が、参列した者を一網打尽にするのではないかという風聞が立ち、参列者がいなかった(曹爽が処刑された経緯を考えると、曹爽の葬儀に参加することは、司馬に敵対すると見なされる危険があった)。
そんな中で、荀勗は葬儀に参加した。それを知った他の人々も、後から葬儀に参列したという。このことで、荀勗は名を挙げた。
政敵だった司馬懿と司馬師が相次いで亡くなり、司馬昭が大将軍になると参軍事・従事中郎に取り立てられ、記室(秘書)を兼ねて事務方を支えた。叔父(母の弟)の鍾会が姜維と謀って蜀で謀反した際には危うく失脚するところであったが、司馬昭に変わらず信愛されて裴秀・羊祜らと共に相国府の機密を預かった。
西晋朝では長きにわたって中書監を務めて詔令を専管し、司馬炎に多くの助言を行った。中書令の張華・司隷校尉の傅玄と共に西晋の礼楽を制作し、また自身の絶対音感を生かして新たな度量衡による音律の改定を行った。しかしながら、権臣・賈充の娘(賈南風)を皇太子妃にするために暗躍したり、伐呉においては賈充に同調して反対し羊祜は病死してしまう。また外戚の楊珧等と結んで、己と不仲な斉王・司馬攸の追放を司馬炎に唆している。そのため羊祜・司馬攸びいきで賈充嫌いの世間や後世の人は、彼を非常に憎み賤しんだ。彼の伝のある『晋書』巻三十九は、一般的に佞臣列伝扱いである。
そんな悪評のせいか、本人は追贈司徒であり三公に届かなかったが、息子二人が西晋極末期や東晋で太尉や司徒になっている。
芸術面の才能と業績
荀勗は音感に優れており、その耳は微細な音の違いを聞き分けられた。かつて通りすがりの趙国の商人が連れていた牛に鈴が付けられてたが、彼はその音を正確に記憶しており、後に音律改訂事業を始めるに当たって律呂(音階の基準音)を定める時、郡国からありったけの鈴を送らせて聞き比べ、あの時の鈴を見つけ出したという。
その才能を生かし、泰始九年より同僚の張華らと共に西晋の宮廷音楽の作詞作曲を管掌した。特にこの時、記録から周代の度量衡を復元して「新尺」を作成し、漢魏と異なる律呂に合わせて全ての楽器を作り直すという大掛かりなことを主導する。これにより西晋の楽曲のピッチはやや早め・音域は高めとなったが、当時楽理に通じるとされた阮咸らは「高音は亡国の音だ」と荀勗を批判した。ただ、これは音楽的な問題というより、皇帝殺しの悪名高い権力者賈充の与党である荀勗への嫌悪が原因と考えられる。業績に関しては、列伝よりも『晋書』楽志・律歴志、または『宋書』楽志などの方が具体的で詳しい。
味覚も常人並ではなく、司馬炎の御前の食事会で「これは古い木材を使って炊いたものだ」と言い当てた。また画才も傑出しており、これを以て鍾会に一泡吹かせている(世説新語・巧芸篇より)。
文化面の業績
晋書の「荀勗伝」によると、荀勗は秘書監を務めていた。これは宮中の図書を管理する役職であり、荀勗は張華とともに、長い戦乱で散逸した書物を集めたり、分類がごちゃごちゃになっていた既存の書籍の整理をしていた。
この業績として、書籍の分類方法を見直し、それまで基本だった「七略」という分類方法から、甲・乙・丙・丁の「四部分類」の方法を生み出した事が挙げられる。この分類法は、以後の中国の書籍分類の基本となり、清朝の時代にも引き継がれた。
これは、日本にも伝わり、書籍の分類に長く活用された。
政治史上の悪名
賈充とは司馬昭時代から先輩後輩(あるいは上司部下)であり、自他ともに認める派閥の一員である。また、司馬炎の弟・司馬攸からは嫌悪されており、その憤死の遠因を作った。
泰始七年(271)、司馬炎と不和になった賈充が長安へ出向するよう勅命を下される(事実上の追放令)。ボスである賈充が都を出て行っては「自らの出世に差し支える」と考えた荀勗は、賈充の三女賈南風を皇太子司馬衷(後の恵帝)と縁組させることで司馬炎との間を取り持ち、賈充の長安行きを阻止した。この賈南風という女性が後に皇后として権勢を振るい、西晋を大きく衰退(事実上の滅亡開始)させてしまう。何ということをしてくれた。
ただし常に賈充の言いなりであったわけでもなく、独自に反司馬攸・親皇太子の立場をとっていたようである(賈充は司馬攸に対してもむしろ好意的)。皇太子納妃の件に関しても、単に自らの利権や派閥のためというより、司馬攸・司馬衷の水面下の争いが深刻化する中、有力者である司馬攸の舅・賈充が私的に攸に加担するのを防ぎ、公人として中立を保たせるためであったという説もある。
西晋で荀勗が長いこと独占していた中書監という官は、詔勅の文章を作成し帝の諮問に答えるという、皇帝にとても近い要職である。彼自身もこの官職に拘りを持っていたらしく、晩年に守尚書令に遷った折、昇進にもかかわらず「私の鳳凰の池を失った」と嘆いたという(「鳳凰池」とは中書の異称)。
中書監としての仕事ぶりは有能であったが徹底した秘密主義で、詔勅の中身を事前に知ることができる立場なのに、宣布された後ですらその内容を部下や身内にすら語らなかった。知人からもっと功績をアピールしたり信頼できる党派を作ってはどうか、と助言されたが、彼は拒んでこう言った。
「人臣は秘密を守れなければわが身を全うできないのだ。私事に根差して公事に背く、これは大いに戒めとしなくてはならない」
三十年以上政治の機密に関わったその慎重緻密な生き方を端的に表している台詞である。