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荀攸

じゅんゆう

荀攸とは、漢の政治家、參謀。字は公達(こうたつ)

概要

様々な魏の筆頭軍師と列を戦術家の一人、曹操の策謀相談役となった 。
荀彧は荀攸から見て叔父(ただし6歳年下)。

董卓家臣だったが、独裁政治を見かねて暗殺を計画するも、失敗し投獄された。
死刑になる予定だったが、王允らによる董卓暗殺が成功したため、助け出された。

董卓の死後は同族の荀彧から推薦され、曹操に仕えることになる。
建安3年(198年)、荀攸は荊州宛の張繍征伐に随行した。荀攸は曹操に向かって「張繍と劉表はお互いに助け合っているから、糧に困らず強力なのです」と言い、劉表の兵糧供給を断ち切ろうと進言したが、曹操は取り合わず、穣まで進軍した。張繍が危なくなると、劉表は荀攸の予想した通り張繍を救援し、曹操は負け戦となった。曹操は「君の意見を用いなかったからこんな目にあった」と悔しそうに取り合いながらも笑い、再戦では奇襲部隊を使って勝利した。

曹操の背後において、徐州の呂布が反乱を起こし、曹操の傘下であった劉備を攻撃した。このとき多くの者は、呂布を討つために引き返すと張繍と劉表に背後を突かれるではないかと心配したが、荀攸は呂布が勇猛で、かつ揚州の袁術の支援を受けていることから、反乱を起こしたばかりで勢力を糾合しきれていない内に討つべきだとした(『魏書』)。曹操は徐州の呂布征伐に赴き、下邳まで進軍した。呂布は三戦して全て敗れ下邳城に立て籠もった(下邳の戦い)。

曹操は下邳城を攻めあぐねて撤退しようとしたが、荀攸と郭嘉は、「敵の指揮官である呂布は勇猛であるが知略に欠け、連続した敗戦で気力が衰えている」こと、また敵の参謀である陳宮は「智恵はあるが決断が遅い」ことを挙げ、「呂布の気力が回復し、陳宮の計略が定まる前に厳しく攻め立てれば、城は攻め落とせるだろう」と曹操に進言した。そこで曹操は下邳城を水攻めし、呂布を捕虜とした3]。

建安5年(200年)、曹操が袁紹と決戦した一連の戦い(官渡の戦い)で荀攸は大いに活躍している。

まず、前哨戦である夏4月(「武帝紀」)の白馬の戦いにおいて、袁紹の部下の顔良が劉延を攻撃したとき、荀攸は曹操に「囮軍を渡河させ、袁紹の軍を分散させる」策を進言し、顔良を孤軍の状態に追い込み、曹操に降伏していた関羽に討ち取らせた。袁紹の部下の文醜と劉備の追撃を受けると、今度は輜重隊を囮に使う策を進言し、罠にかかった文醜は討ち取られた(延津の戦い)。

その後、曹操は荀攸の進言に従って、徐晃と史渙に袁紹の部下の韓荀が率いる輸送隊を攻撃させ、数千台の穀物輸送車を焼き払った(「武帝紀」)。徐晃を名指しで推薦したのは荀攸である。

戦局が膠着し始めると、袁紹の重臣許攸が兵糧守備隊の情報を持って降伏してきた。諸将はこの降伏を偽りではないかと疑ったが、荀攸は賈詡と共に許攸の意見を支持した。曹操は荀攸らの意見を汲み取り、即座に行動を起こし、自ら歩騎五千人を率いて淳于瓊軍を強襲した(烏巣の戦い)。この奇襲で袁紹軍は兵糧を失った。

その後、袁紹の命令で曹操の本陣を攻撃していた張郃・高覧らが離反し、留守を守っていた曹洪に降伏を申し入れてきた。曹洪は疑ったが、荀攸は張郃が降伏を決意した事情を分析し、信じて受け入れるように勧めた。この前後に袁紹は逃走し、官渡の戦いは曹操の勝利で終わった。

202年の夏5月(「武帝紀」)、袁紹が失意の内に死去した後、その子の袁譚と袁尚は後継者争いを始めた。曹操は黎陽に出陣し、秋9月(「武帝紀」)に一時的に和睦した袁尚・袁譚の連合軍を破った。荀攸はこの戦いに従軍している。

203年、曹操が劉表征伐に赴くと袁尚・袁譚の争いが再燃し、戦いに敗れた袁譚は辛毗を使者に送って降伏を申し出てきた。他の臣下らはなお強力な勢力を保っていた劉表征伐を優先するよう勧めたが、劉表は自守の賊であって野心が貧しいことと袁氏の力はまだ侮れず後継者争いが収まったら再び脅威となるであろうことから、荀攸は袁譚と袁尚の争いに乗じて袁氏の土地を奪って平定するよう進言した。曹操はこの意見に賛同し、袁譚と和睦し袁尚を撃破した。後に袁譚が背くと曹操は袁譚をも攻撃し、南皮において袁譚を滅ぼした。この戦いに荀攸も従軍している。曹操は荀攸の功績を上奏して称え、荀攸は陵樹亭侯に封じられた。

建安12年(207年)、曹操が袁氏と烏桓を滅ぼすため北方に遠征しようとした時は、荀攸らほとんどの臣下は、劉備が劉表を動かして背後を突くことを心配し中途したが、郭嘉のみが賛成している(「武帝紀」)。しかし、曹操が9月に袁氏と烏桓を滅ぼし、公孫康を降伏させて柳城から帰還したとき(「武帝紀」)、荀攸の宿舎に立ち寄って、前漢の高祖が張良にしたように、領邑で功績に報いることを約束したという(『魏書』)。曹操は論功行賞を行ったとき、「忠義公正で、緻密な計略を立て、国の内外を鎮撫した者としては、文若(荀彧)がこれに該当し、公達(荀攸)がその次に位置する」と述べ、荀攸の領邑を400戸加増し合計700戸にし、荀攸を中軍師に転任させた。

その後、孫権との戦いに赴く途中、陣中で病死した。

三国志の魏書「荀彧荀攸賈詡伝」に伝がある
著者陳寿は彼を賈詡と共に失策が無く、劉邦を支えた前漢の名軍師張良陳平に次ぐ功績として高く評価した。

大人しく自己主張の少ない性格で、曹操は子の曹丕に対し、「人の手本となる人物だから尊敬するように」と言い聞かせていたという。


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