概要
B.C.202年、項羽を倒し中原を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧領の国号(漢中)の漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。
この劉邦が開いた(前/西)漢と、王莽の新王朝による中断を挟み、劉秀(光武帝)によって再興された(東/後)漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。
しかし、その誕生後は混乱も多く、まず韓信など外様の武将だった諸侯が次々粛清され、B.C.195年に劉邦が死んだ後は呂太后の一族(外戚)による専横で他の劉一族が粛清され、さらに呂太后が死ぬと残った呂氏勢力が粛清されるという大虐殺の連続であった。
文帝から景帝の代には先の戦争や内乱で疲弊していた経済も回復し、帝室の財力も増大していったが、同時に地方の諸侯(この頃はほぼ皇帝の庶子一族)たちの勢力も増大させた。
これを押さえ込もうとした帝室と諸侯らの間でB.C.154年に内乱(呉楚七国の乱)が起きたが、半年で乱は鎮圧。秦同様の中央集権体制が確立された。
武帝の代になると、漢は領土/朝貢国拡大を目論んで多方向に進出。
北はモンゴル、西は中央アジア、南はインドシナ、東は朝鮮半島へと進軍し、漢代の最大版図を得た。
だがその後は皇帝が外戚や側近の宦官に政治を左右され、ついにA.D.8年、外戚の王莽が皇位を簒奪して「新」を起こし、漢朝の歴史が一旦途絶えた。