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鍾繇

しょうよう

鍾繇とは、後漢末期~三国時代の魏の政治家・書家。字は元常(げんじょう)。
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概要編集

豫州潁川郡長社県(現在の河南省許昌市長葛市)の出身。子は鍾毓鍾会

鍾繇の先祖は、末から楚漢戦争期に活躍した将軍・鍾離眜とされている。

高名な書家であり、鍾繇体(隷書と楷書の中間のような書体)という字体を作った。


経歴編集

献帝に仕えていたが、当時兗州牧だった曹操が初めて朝廷に使者を送って上書した際、当時朝廷を牛耳っていた李傕郭汜らを説得して曹操の使節を通わすことができるようにしたことで、曹操に一目置かれる。

後に曹操が献帝を擁立すると、鍾繇は曹操に仕えることとなる。

官渡の戦い後、匈奴族が平陽で反乱を起こした際、鍾繇はその討伐に向かうが、自身の甥の郭援が敵対する袁尚軍の配下として敵の増援に現れて劣勢に立たされる。だが、鍾援は甥の弱点を分析し、袁尚と内通しようとしていた馬騰を説得して馬超龐徳率いる一万の兵を得ると、反撃に出て反乱を鎮圧する。その際、郭援は龐徳に討ち取られており、甥の首級を前にして涙を流してため、龐徳は謝罪するが、「甥と言えども国賊、君が何を謝ることがあるのか」と答えて龐徳を責めなかった。


その後、が建国されると相国に昇進したが、自身が推挙した魏諷が反乱未遂を犯し、その連座して免職してしまう。曹操の息子・曹丕が王位に即くと大理に復職する。


230年4月に80歳で死去。


三国志演義編集

演義では、馬超・韓遂が馬騰らの敵討ちで挙兵した際、長安の太守として登場する。架空の弟・鍾進がいる。

長安で守備に徹するが、城内の薪木などが不足してきたことで馬超軍が遠くにいる隙に一時的に門を開放して民達に薪木などを集めさせていたが、密かに龐徳達が民に変装して紛れ込み、襲来して来た馬超軍によって城内に避難する民達と一緒に城内へ侵入。

内側から火を放ったことで城内は大混乱となり、鍾進は龐徳に殺され、鍾繇達は潼関まで撤退する。


曹叡の時代、諸葛亮の北伐に対し曹真は連敗し、当時の魏では抗える者がいなかったが、鍾繇は流言により失脚していた司馬懿の再登用を進言した。


関連タグ編集

三国志 曹魏 鍾会 書家

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