概要
中国の王朝(しん、拼音:Qín、紀元前905年~紀元前207年)。国姓は嬴(えい)。周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在し紀元前221年に中国を統一したが紀元前207年に滅亡した。
統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前207年)を秦代と呼ぶ。統一時の首都は咸陽。
歴史
紀元前905年、周の孝王に仕えていた非子が馬の生産で功績を挙げ、嬴の姓を賜って大夫となり、秦邑(甘粛省張家川回族自治県)に領地を貰った。
秦の人達は長らくチベット系の西戎と戦い、紀元前822年に荘公が西戎を破って領土を拡げ、西垂(陝西省眉県)の大夫になった。
紀元前770年、侵攻したチベット系の犬戎に周の幽王が殺され、周は洛邑に遷都した。秦の襄公は犬戎と戦い、遷都の際も周の平王を護衛したため諸侯に封じられ伯爵となった。
中国化した遊牧民が人口の大部分を占めるため他国から蔑まれていたが、着々と力を蓄えた。
商鞅の新法により大国にのしあがり、張儀の連衡策により蘇秦の合従策を切り崩した。そして嬴政が他の6国を滅ぼし、始皇帝を名乗った。
商鞅以来の厳格な法律や土木事業などで、その後の中国王朝の基礎を築いた。さらに、各国でバラバラだった制度や基準などを統一した。外交面では、蒙恬の遠征で匈奴と戦った。
始皇帝の死後、李斯や趙高が専横を極めるようになる。さらに上記の苛烈な統治の不満が爆発し、陳勝呉広の乱が勃発、群雄割拠の様相を呈し、混乱の中で滅亡。統一から10年あまりの歴史であった。