概要
史記には『昭王二二年(紀元前285年)蒙武斉を撃つ』とあるが、蒙驁の間違いではないかと見られる。
紀元前224年、楚に侵攻した李信と蒙恬は項燕に敗れた。項燕が秦に侵攻してきたため、将軍に復帰した王翦が60万の大軍を率いて楚を攻め、蒙武はその副将であった。秦軍は蕲で楚軍を破り、楚王負芻を捕虜とした。項燕は淮南で秦の丞相だった昌平君(負芻の異母兄弟)を楚王として擁立。
紀元前223年、蒙武は王翦と共に楚を攻め、昌平君と項燕を戦死させ楚を滅ぼした。
関連タグ
創作での蒙武
漫画「キングダム」
アニメのCV:楠大典
実写の演者:平山祐介
秦の丞相・呂不韋(後に相国に昇進した)直属の四柱の1人として登場。自身の武力に絶対の自信を持っており、中華最強である事を証明するため政に六大将軍制度の復活を上奏する。
父の蒙驁、長男の蒙恬と同じく秦の実力者であるが、圧倒的な攻勢に特化した性質故に昌文君からは危うさを指摘され、他国からも猪突猛進と評されている(これについて蒙武は、「戦いに攻も守も無い。あるのは目の前の敵を打ち砕くこと」と反論している)。
戦闘スタイルは己の武力を筆頭に士気を高めた兵たちで一気に押し潰す力押し。その戦い方は昌平君や王騎から見ても「策も何もあったものでは無い」と言わしめるほど。それでも、兵の士気を上げるために戦を使って練兵をする等、軍への理解は深い。
馬陽の戦いでは王騎の副将として参戦。
序盤はその武力で勢いに乗るが、終盤に王騎の「追撃は本陣の旗が見える範囲まで」と言う指示と隆国の罠だと言う忠告を無視して無謀な追撃を行ったため、趙荘の策によって壊滅的な被害を負う。
その後は王騎を戦場から離脱させる為に突破口を開き、王騎から秦国軍の顔になるべき一人とこれからの事を託される(騰も「我が殿、王騎の死はお前を強くした」と、彼を少なからず評価している)。
合従軍戦では騰軍との連合軍となり、「楚の巨人」の異名を持つ楚大将軍・汗明の指揮する楚軍に当たる。この時、昌平君の助言による「斜陣がけ」という戦術を使って汗明軍本隊への道を作り出し、汗明との壮絶な一騎打ちの末討ち取り、汗明軍に再起不能の打撃を与えた。更に汗明戦の傷が癒えていない状態で斉に侵攻した合従軍の背を討ち、項翼に「化物」と呼ばれた。
馬陽時点で既に大将軍であるが、秦国を象徴する大将軍とは認められておらず、合従軍の論功行賞にて秦国大将軍に昇格している。
蒙武の部下
副官の一人。
副官の一人。
余談
昌平君にも同じことが言えるが、作中の呂不韋陣営の中では呂不韋のために動いているような素振りは一切なかった。呂不韋が戦のために蒙武を動かすことはあるが、呂不韋にとっては政治的な意味で自身の陣営にとって有益なため。
一方、蒙武にとっては戦場で中華最強の証明が近づくので有益なだけに過ぎないと思われる(一応、秦国最大陣営に所属するので息子のコネにも有益ではあるが、蒙武自身がどこまで考えているかは不明)。
そのため、どちらもあくまで利害の一致による結託といえる。
上記の通り中華最強を証明するのが自身にとっての至上命題であり、李牧が咸陽を訪れた際も隙あらば殺すつもりだったことに加え、汗明を討つ際も本来は嫌う作戦も利用した。
公式ガイドブックでは蒙武の武力を基準に他の武将の武力を決めていることが明言されている。
公式ガイドブックは2023年7月現在で3冊刊行されているが、蒙武はいずれも武力は99または100と設定されており、最新である『戦国七雄人物録』では、同じ武力100なのは汗明や龐煖くらい。
什虎で討てなかった満羽は彼が言うように汗明より武力は下である他、王騎なども単純な武力では蒙武に勝てない。
一方、龐煖は武力で劣るはずの信が文字通り命を捨てて勝利しているため、(信がイレギュラー過ぎるものの)武力100で相手がそれ以下であっても作中では必ず勝てるとは限らないのが実情である。