概要
中国語ではワン・チエン(Wang Jian)と呼ぶ。
白起・李牧・廉頗と比肩する戦国四大将軍の一員たる秦の名将で、史記にも個別の項目で語られている歴戦の勇者である。秦の中華統一事業に際しても若手の将軍たちをまとめ上げる役割を担っていたが、老齢を理由に一旦引退している。
これは実力至上主義者である秦王政が自分を役立たずとして処分することを避けるためであった。その後、李信率いる秦軍が楚軍に大敗し、勢いに乗じた楚軍の秦侵攻が開始されると秦王に請われて現役復帰し秦軍のほぼ全軍60万を指揮する事になった。
しかし、これは謀反を企んでも十中八九成功してしまう立場でもあった。そのため王翦は政に「戦に勝利した暁には相応の褒美をください」という内容の手紙をしつこいぐらいに送り続け、自分が謀反よりも褒美の方を気にしていると政にアピールし続けた。その甲斐あって、彼が楚に勝利し秦が天下を統一したのちも粛正されることなく平穏な生涯を送ることとなった。
キングダムの王翦が利己的な人物に描かれているのも、保身に明け暮れた上述のエピソードから来ているのだろう。
戦術家としては堅実なやり方を好み、確実に勝てる道筋を引いてから戦いに望む将軍であった。
創作での王翦
漫画「キングダム」
秦の武将。王騎の親戚であるが、彼が主家であり王騎は分家である。
大将軍・蒙驁の副官であり、同じく副官の桓騎と共に縦横無尽の活躍をしていた。秦六将のメンバーであった王騎にくらべ地位が低いのは彼が危険人物だからである。
王翦は野心家であり、「自らが王になる」ことを志している利己的な人物と噂される。そのため元六大将軍の一人・胡傷に才を認められていたにもかかわらず、先々代の昭王の代から活躍しているものの信頼されず、蒙驁将軍の元で働く日々を送っていた。
とはいえ武将としての能力は紛れもなく一級品であり、トリッキーで攻撃的な戦術を得意とする桓騎とは逆に、野戦築城や心理操作を織り交ぜた重厚な戦術を得意としている。その性質上、守備戦を任される事が多い。また、自身が下した敵を傘下にスカウトし、王として従わせるという他の武将にはあまり見られないやり方が特徴。
恐ろしげな形相の顔をあしらった鎧とアイマスク状の兜といったインパクトのある外見とは裏腹に、蒙驁の副将でありながら自分の身を守るための行動を最優先したり、味方の武将にすらゴミを見るような視線を投げつけるなど一概には捕らえきれない複雑なキャラクターである。捕虜を残酷に嬲り殺す桓騎とは違い、投降した者や有能な敵将に対しては”自らの”配下になるよう勧誘するなど、彼独自の勢力を造ることにも余念が無い。
息子の王賁とは滅多に話さないらしく、彼が幼少の頃に槍裁きを指導したことすら端から珍しがられるほどである。
軍としての詳細は王翦軍を参照。
国家観
王翦は作中で自身の領内を「くに」と表現することがあり、上記の通りその最終目標は自身が国家の王になることである。
王翦の具体的な国家観に対する説明は現状見られないが、作中で王翦がスカウトしようとしている人材はいずれも戦争で自らが下す相手や自分に近しい戦争の知略をもった人物に限定されている。
下記の姜燕をスカウトする際「私の"領内(くに)"はうぬのような戦の強い男を必要としているのだ」と発言している他、朱海平原15日目の李牧のスカウトの際「歴史の重みで国が救われるものではない。上に立つ者共が馬鹿の集団であれば、それだけで国は亡(ほろ)ぶ。(中略)お前たち(李牧軍)が命がけで尽くしても上のせいでそれはどこにも実を結ばぬ。(中略)その才覚(前後の文脈から推測すると戦争に対する武力や知力と考えられる)を虚しくするなと言っておるのだ」とも発言している。
これらの発言から最終的な終着点としては武力を至上とする国家であることは間違いない。
武力あるいは知力の高さによって生活が豊かになる国家であるとすれば、王翦の傘下将軍や王翦兵などがその思想を支持するのは当然の話だろう。
また、作中の世界観では未だ王族が国家の主権を得るのが主流であり、王翦の思想は同時に既存の王族の淘汰に繋がるため、反発されるのもまた当然である。
昭襄王の時代から冷遇されていたのは単に昭襄王のみならず士族や他の王族からの反発もあったと考えるのが妥当であるが、仮に実現してしまったら彼らの立場が無くなるというのも理由に含まれているのかも知れない。
それ以前に王翦という人間自体があまりに自分本位であるため、自分に都合の悪い話には乗らない、即ち他の王族や士族との協調性に欠けるのが直接的な原因であったとしても、結局は王翦は自己主張だけは行うものの他者との連携を意識しない、あるいは対話しないのであれば、避けられるのは当然だろう。
作中で王翦が起用されつつあるのは、昭襄王や六大将軍がこの世を去ったことで引退する士族や隠居した王族、即ち武将の世代交代や政権交代により王翦が考える「馬鹿の集団たる上に立つ者」が少なくなったことで、上記の反発が薄れたためとも考えられる。
一方、李牧が「あなたは国を亡ぼすことはできても、国を生み出すことはできない」と否定したように、例え客観的に見て愚かだろうと他国の宰相に対し他国の王族や歴史を侮辱するような愛国心も忠誠心も無い人間が目指す国家というのは、恐らく建国自体が不可能だろうと考えられる。
国とはあくまで歴史の上で成り立つものであり、将来的に今の王族が愚かであり反乱により亡ぶ可能性があるとしても、それは歴史の上で数えきれない人間が生活あるいは知恵を絞って尽力した結果が毀損されたためであろう。
無論、他国を侵略する立場である秦国の武将が、他国の王が愚かであるからと秦国が攻めることを正当化するのはもってのほかである。
また、仮に上記の推測通りに王翦の考える国家が武力至上主義であるならば、『キングダム』では以下の点で問題となる。
まず、後世の戦争を無くすために戦争を行なっている秦国王・嬴政と相反する。
なぜなら武力が強いと認められるには、当時の世界観なら世界に戦争が存在しなければならないからである。
単に畑仕事や力仕事ができるだけで良いなら武力の有無は関係ないし、武力が高いのなら力仕事などは当然行えるはずなので、王翦が建国する必要性がほぼ無くなる。
即ち王翦は戦争がある世界を肯定している上、戦えなくなった人材を淘汰しかねない管理社会的な体制を作りかねない点で、他の戦国七雄の王族と似た考え方をしている恐れがある。
次に、「天下の大将軍」という存在と相反する。
この考え方は意外なように思うが、山陽攻略編で廉頗が語った内容を鑑みると存在自体を否定していてもおかしくない。
「天下の大将軍」とは秦国六大将軍、趙三大天、魏火龍などが戦いを繰り広げ領土の奪い合いをした結果、ほぼ作中現在の中華を成立させた時代を生き抜いた大将軍を指すが、廉頗が信に提示した「天下の大将軍を超える天下の大将軍」の条件こそがまさに中華統一であり、即ち上記の嬴政の考え方と合致してしまうのだ。
また、これは邪推だが、かつての「天下の大将軍」が今の戦国七雄の成立に大きく関与しているならば、「天下の大将軍」によって今の自分たちの生活が成り立っているとも言える訳で、悪く考えれば「天下の大将軍」が今の自分たちの人生を決めてしまったとも解釈できる。
例えば戦争は本来ならしないのが望ましい、それは誰だって考えるだろう。
しかし戦国七雄が存在できるのはその名の通り「戦国」、つまり事実として戦争を止められない、戦争に参加し防衛ないし勝利できたから存在できているのである。
作中の世界観で強制徴兵という形が取られる描写は少ない(秦国については馬陽防衛や韓攻略で見られるが、他国は韓攻略時点で明かされていない)ため、戦争への参加は余程の事情が無い限りは任意の形を取っているものの、仮に戦争に参加し生き残る、あるいは武功をあげれば多大な報酬が得られそれで家族を養うことができるという経済システムが成立していたからこそ、今の戦国七雄が成立しているのである。
ともすれば、大半の男性は多大な報酬を目的に出稼ぎを行なう感覚で戦争に参加し、戦争に参加した男性の彼女や妻は帰りを待ちながら家事を行なったり子どもを養ったりなどのライフスタイルが確立される。
しかし、現在の日本のように戦争が無く定職さえあれば最低限の生活ができる世界を望むことはできないのか?
作中ではその対話が欠けている、あるいはお互いに剣を取り合うことでしか対話ができないために戦争が続き、その戦争における有用性によって一族の存続が決まってしまう世界観、端的に言えば戦争に出なければ評価されない家柄なんてのも出てきてしまうのだ。
王翦の一族はまさに戦争の存在によって評価される武家である上、分家である王騎が「天下の大将軍」になってしまったため、王騎以上の武功を生み出せる世界が無ければ一族としてのアイデンティティも失われてしまうのである。
尤も作中の王翦がそこまで考えているかは不明(何なら嬴政が中華統一後にどのように統治するのかを世間的に公表したかさえ不明なので、王翦としても嬴政と対立する判断材料が十分揃っているか分からない)。
ちなみに、昭王の全盛期でさえも六大将軍の陰から出られなかったとして蒙驁と張唐が六大将軍を嫌悪していたことが合従軍編で語られている。
王翦もまた六大将軍胡傷に評価されていながらも昭王の時代から冷遇されていたことを鑑みると、「天下の大将軍」や昭王を心情的に毛嫌いしたとしてもそう不思議ではない。
仮にそうならば、戦争を止めようとする嬴政によって復活した六大将軍制度により嬉々として戦争を起こせる「天下の大将軍」になる権利を得た王翦自身が「天下の大将軍」を嫌っているという、何とも矛盾した話になりかねないため、この掘り下げは今後の展開に期待したい。
ともあれ武力を至上とするのであれば、それは即ち武力または知力を持つ人間の才能によって形成される国家であり、当時の世界観で鑑みると結局は血筋に帰結しかねない、つまりは王翦が否定する「馬鹿の集団たる上に立つ者」の微々たる差にしかならない未来が待っており、いずれにしても王翦が国を生み出すことはできないのは確かだろう。
史実の王翦は最終的に反乱を起こさないように立ち回っていた、つまり王翦の思想は引退するまで付いて回り最終的には根折れしたと言える訳だが、王翦の国家観や思想は今後の『キングダム』における秦国を揺るがす事態に発展する可能性はあり、注目すべきポイントと言える。
作中の動向
昭襄王の時代に才を認められており、同じ胡傷に師事していた昌平君からは合従軍の守りの要や鄴の総大将に任命されるほどの実力者。
しかし上記の通り昭襄王からは認められなかったことから、蒙驁にスカウトされるまでは日の目を見ることが無かったが、蒙驁が連戦連敗の頃に桓騎をスカウトしていたため、蒙驁軍としては桓騎の加入より後と思われる。
少なくとも信が子どもの頃には蒙驁の名は大将軍として知られ、その要因として副将の桓騎と王翦の存在があったのは確かだが、山陽攻略編の時点では他国に戦歴が広まっている武将では無かった。
山陽戦では姜燕を何手も先を読んだ上で圧勝したものの、廉頗の登場で逆転され、築城により籠城に徹したことで間接的に勝利に貢献した。
廉頗はこの戦の現況における築城に関しては自己中心的と酷評したが、桓騎が白亀西を討ち取り、廉頗率いる魏軍が蒙驁の本陣に向かったために、王翦軍と手負いながらも桓騎軍も含む二軍と蒙驁の本陣による挟撃のリスクを負う形となった。
大将軍である蒙驁の生死をガン無視する観点では廉頗の考え方も決して間違ってはいなかったが、大局的に戦略を組んでいるからこそ王翦軍の温存が活きる結果となった。
合従軍編では函谷関の裏手を燕軍から防衛した。
兵力差があったものの心理戦に持ち込んだことでオルドを出し抜き、函谷関防衛に大きく貢献した。
また、合従軍が函谷関から離れた同年、蒙驁の死により秦国の将軍の一人となり、魏の城を落としている。
数年後に楊端和、桓騎、王翦の三軍による鄴侵攻の連合軍の総大将として、趙国第二都市の鄴攻めへと出陣し、途中で李牧の策を知り昌平君の考案した策が使えなくなったと理解すると、僅かな護衛と共に鄴へ行き、鄴を見てその場で鄴攻略の策を練り上げて、昌平君が考案した策を捨てた上で全軍で王都圏へと進軍し、兵糧攻めを決行。
三軍で鄴周辺の城郭を落としつつ城の食糧難民を鄴城に集め、城の包囲を桓騎軍に任せた。また、迎撃に来た李牧軍を相手に朱海平原にて頭脳戦を繰り広げながら、最終的には難民に紛れ込ませた兵による食糧庫を焼き討ちして、食料が無くなった難民の暴動によって鄴城が陥落。無くなった兵糧を秦とは逆側の斉国から買い輸送してもらう事で兵糧を確保して勝利した。
鄴攻略の功績により、六大将軍が復活すると、第三将に任命された。
肥下の戦いでは李牧の策に嵌められ閼与城で想定以上の被害を受けたため閼与城に留められてしまい、また幾重にも張り巡らされた李牧の罠によって桓騎軍に援軍を送ることができなかった。
余談
『キングダム』の王翦は常に兜を付け外した姿を作中で見せたことは無いが、『キングダム公式問題集』によると流石に寝る時は外しているという。