六大将軍
ろくだいしょうぐん
特に秦国で強大な武力を持つ6人以下の大将軍を対象に「六大将軍制度」に基づき任命される。
六大将軍に任命された大将軍は戦争の自由という特権が与えられ、これにより戦争を広範囲かつ迅速に展開したため、戦国6国にその名を轟かせていた。
新旧ともに六大将軍は、首都・咸陽で軍総司令の指揮下において作戦の概略を構築(必要な人や食料はこの時に考える)し、現場ではさらに六大将軍の判断により必要な人や食料を調達する形式をとる。
咸陽での作戦構築は六大将軍ではない大将軍以下を総大将に据える戦争でも同じだが、戦争の自由における最大の違いは現場で必要な人や食料について、咸陽での判断を仰ぐことなく侵攻を行う六大将軍の命令により現地調達が行えることにある。
特に咸陽からの判断を仰ぐ必要が無いことで、現場の迅速な対応により相手に隙を与えず侵攻が行える利点が大きい(一応記載するが、咸陽から現場まで命令したり状況報告を受けたりするのに騎乗した伝令兵を走らせ数日から数か月かかる時代であるため、事態解決を迅速にしたいなら状況判断を現場に丸投げせざるを得ない)。
作中では影丘で桓騎が強制徴兵により多くの周辺住民を巻き込んだ上、それだけでは足りないために玉鳳軍や飛信隊も加勢させている。
食料問題については作中で描かれていないものの、史実の長平の戦い(紀元前262年-260年)を仮定した場合、廉頗に籠城戦に持ち込まれたため総大将を趙括に替える策に出たが、総大将が替わるまでの数か月間、秦軍は疲労を見せながらも秦国内から強制的に食料を奪取することで生き永らえた可能性もある。
なお、韓攻略では半年ほど秦軍が南陽城周辺に居座っているが、騰としては南陽城から食料を奪取する意図はないため、秦軍側の食料は秦国から仕送りがあると推測される一方、南陽城の韓民から譲り受けた食料については六大将軍制度とは無関係である。
さらに、新六大将軍の時期には新しく、戦後に派遣され現地を統治する文官よりも現地に駐留する六大将軍の地位の方が高いという判断が下されることとなった(詳細は剛京を参照)。
ただし、メリットばかりではなくデメリットもある。
まず、咸陽の判断を仰ぐ必要が無いため、その戦争の内容を咸陽が知るのは伝令の主観による戦況報告を除き、ほぼ事後報告となってしまう。
『キングダム』作中では伝令兵から送られる指示に従い現場判断を変える描写も一応あるが、六大将軍に限らず大将軍クラスともなると咸陽でも真意を読み取れないことがしばしばある他、そもそも報告が無いなら咸陽も対応しようにも対応できず静観せざるを得ない。
影丘では桓騎軍が投降した趙兵を虐殺したが、桓騎軍の総数が少ないことが露呈したら各地で反撃される恐れがあったのは事実であるため、現場判断で捕虜の対処を決めざるを得なかったことに起きた悲劇という見方もできる(どのくらいの数を斬るかは嬴政の言うように判断できただろうが、桓騎にその考えが無かったため、止める手段も当然皆無だった)。
また、肥下の場合は李牧による情報封鎖の中、狼孟城の敗戦・閼与城で動けない王翦軍・総大将の判断により侵攻する他なかった桓騎軍の3つの状況において、その全てを把握した上で対応する必要があったものの、伝令兵が戦中で把握できたのは恐らく桓騎軍の前進以外であり、同じ六大将軍である王翦としても閼与城から援軍を送る判断は難しく、より深みに嵌った桓騎軍を救う手立ては現場の時間的にも皆無だったため、タイムラグのある咸陽も当然対応できないことになる。
次に、戦場の周辺などから人員を調達できるとはいえ、その殆どが戦争の経験のない素人であり、当然だが練兵もできていない人々ばかりである。
その彼らが、正規の秦兵でさえ苦戦するような相手と対峙するなら、たとえ伍(ご)を組むとしても1人を倒すのさえ難しく、人員を用意すれば多大な犠牲が避けられない。
仮に多大な犠牲を出しながら戦果を挙げられない状況(影丘の丘攻略や、肥下戦の敗戦要因の一つである狼孟城からの不意打ちなど)では、理論上は国民にとって秦国に対する不平不満が出るのは勿論、軍部さえ下級の兵士から軍に対する不信感を抱きかねず、戦争の士気にも影響する。
また、周辺住民も軍に加えたら尚のこと食料確保の問題も大きくなるため、食事にありつけないなら当然不満も出てくる。
以上を総括すると、素人の人間を従軍させることは、人と食料(と従軍に伴う給付金)が莫大に膨れ上がり、秦国はこれらも含めた多大な犠牲を覚悟しなければならない。
無論、これらのケアを疎かにすれば民間も軍部も不満が溜まり、最悪の場合は内乱という同士討ちにより、国家が一丸となって取り組まなければならない中華統一事業そのものがとん挫しかねない(六大将軍自身が内乱を起こさないとしても、六大将軍の軍の内部分裂は想定に入れる必要もある)。
このため上記のリスクが生じないように全ての戦争に勝つのが前提として、多大な犠牲を払いつつも奪った人や食料も確保し、国内国外の有能な人材であれば積極的に登用できるようにするなどして国内国外の人々の溜飲を下げつつ従軍させ中華統一を目指す、この目標達成までの最大の年数が15年と昌平君は計算している。
また、示唆の程度に留まっているが謀反の恐れも存在する。
上記のデメリット以前に、ただでさえ10万人の軍を抱える上、周辺住民などを傘下に強引に引き込めることを鑑みると、同じ秦の国民に対して刃を向ける(謀反を起こす)リスクが生じてしまう。
このため六大将軍制度は昭王との鉄の忠誠心によって成り立っていたと言われており、昭王の崩御前には王騎も戦場に出なくなったことも相まって、廃止されたと考えられる。
中華という国土に夢を抱き国土拡大を求めた昭王の下、秦国は常に戦国6国の複数の地域を侵攻していた。
しかし上記のタイムラグや食料・人材の事情から、咸陽から遠く離れて戦う大将軍らと連携を図るのが枷になると考えた昭王は、6人の大将軍に対して「戦争の自由」という特別な権限を与えた。
これが六大将軍制度である。
制定された時期は不明だが、遅くとも摎が王騎軍傘下将軍になった時点で存在し、摎の任命以前に5人の大将軍が存在していたとされる(後述の通り紀元前257年に白起が自害しているため、遅くともそれより前の時点で任命されていると思われる)。
即ち六大将軍制度の施行に合わせて6人の大将軍を同時に任命したのではなく、制定後に6人が揃うまでは戦いの強さに応じて順次任命していたことが示唆されている。
六大将軍制度によって戦争の高速化や多様化および国土拡大に大きく影響を与えた一方、作中の嬴政などの王族や趙国との関係の深い、史実における長平の戦いとの関係性は考える必要がある。
長平の戦いで虐殺が起きた最大の理由は、上記の通り食料問題だった。
籠城戦のため秦兵との交戦による趙兵の犠牲は少なかった一方、趙兵は深刻な食料不足に陥っており、秦軍には40万人にのぼる投降兵に与える食料は無かった。
そして、食料難、敗戦による総大将・趙括への恨み節、秦軍に対する屈辱感や恐怖などを要因とし、数で勝る投降兵による反乱を防ぐため、白起は投降兵を生き埋めにした。
この結果、作中の肥下戦で見られるように趙軍の士気を上げてしまい趙侵攻が失速した他、白起は長平の戦いを最後に従軍しなくなり(戦争の自由には当然、戦争を行わない自由もある)、終戦から3年後の紀元前257年に昭王から自害を言い渡された。
以上から六第将軍制度を踏まえ史実の長平の戦いが浮き彫りにした要素は、「食料問題」「戦争を行わない自由」「投降兵の扱い」「六大将軍の一角を失う」といった結果であり、特に投降兵の扱いについて昭王は王騎に遺言として「戦に慈悲は無用なれど、奪い取った地にある民は奴隷に非ず。虐げることなく自国の民として同様に愛を注ぐこと」と託す契機になったと考えられる。
というのも後の戦争に対する責任の説明により秦国の城の奪取過程が韓攻略時点で旧態依然なのが明らかになったことで、昭王政権下では奪取した城の民の扱いを変えなかったと断言できる他、昭王が目指した中華統一は食料問題や内外の国民の意図を汲み取りきれておらず、その目的が単なる国土拡大だけであることを補強したと言え、総じて昭王のやり方が無責任だったと騰が暗に示している。
作中開始時点で六大将軍制度自体は廃止されているような描かれ方をしているが、公式ガイドブックも含めいつ廃止されたかの言及は一切ない。
ただし蒙武が上奏した内容より、呂氏派も大王派も六大将軍制度の「復活」という表現については共通認識であったことから、作中開始時点では正式に廃止されているという見方が適切と考えられる。
また、呂不韋の傀儡政治下にあった荘襄王政権で廃止した可能性については、呂氏派である蒙武が復活を申し出る時点で矛盾する。
とはいえ蒙武が上奏した紀元前245年(始皇2年)時点で嬴政が即位から間もないため、話は長いまま保留となっていた。
作中で再び六大将軍の話題があがったのは紀元前238年(始皇9年)、秦国を統一し中華統一のために秦国がこれから一丸となろうとしている頃、信が嬴政から聞いた話である。
軍総司令・昌平君は、6国を滅ぼし中華統一するまでの過程で高い士気と集中力を持続できる限界の年数が15年と計算した。
このため嬴政は、秦軍の規模拡大に伴った措置として制度復活を行う考えを明かした。
紀元前237年(始皇10年)、趙宰相・李牧と斉国王・王建の来秦後、趙国は奪取された黒羊周辺の趙西部の築城を進めたため、紀元前236年(始皇11年)に鄴侵攻を敢行する。
重要なのは出陣前の総大将・王翦に対し昌平君は「(軍部が)授けた鄴攻めの戦略は戦局の流れによっては捨てていい」と語ったこと。
一般的に軍総司令が考えた軍略は絶対であるにもかかわらず、(戦略の定跡から外れる下策中の下策な上、多大な犠牲や中華統一事業の進退に大きくかかわるため机上論の戦略で李牧に敗北することは何としても避けたかった都合もあり)大将軍に現場を判断する決定権、もっと言えば軍規に反しない範囲での戦争に対する意思決定の自由を委ねたのだ。
その自由は六大将軍制度の「戦争の自由」に匹敵するものであり、その自由を行使する権限を王翦に与えたと言えるのである。
また、王翦も、斉国に対し水路による食料を用意するよう昌平君に頼んだが、鄴攻略の結果から王翦に暗に与えた「戦争の自由」の権限によって秦軍は勝利を掴むことができたと評価したと考えられる。
他にも飛信隊・玉鳳隊・楽華隊は特殊百人隊の頃から現場判断の能力を培えるように「独立遊軍」という権限を与えているが、これもまた戦争での意思決定の自由を認めるものであり、昌平君などの軍師も3隊の現場判断により結果を出すことが鄴攻め成功の絶対条件として認識していたことも後押ししたと考えられる。
このため紀元前234年(始皇13年)、中華全土の戦争をなくすため中華全土を立法によって国民を統制する1つの国家設立の手段として六大将軍制度が復活した訳だが、下記の新六将を見る通り、復活当初に選出されたのは5人だけだった。
新六将の選定の上で嬴政は戦の強さが絶対に必要と語り、実際に選出された大将軍らは作中通り実力を備えているのは間違いない。
ただし、第五将・桓騎は選任対象として不適切と李斯が忠告していたようだが、それでも嬴政の中では戦の強さで他に比肩する大将軍が居ないことが大きかった模様。
紀元前231年(始皇16年)、六大将軍・騰と南陽城に配属された文官・剛京との間で南陽城城主の扱いについて悶着があり判断を咸陽に仰いだ所、騰の主張が認められたことで、六大将軍の方が派遣される文官よりも立場が上と判断された。
今後、六大将軍の統治下の城では、六大将軍の意向により城や城民の処遇が決定することとなる。
旧六大将軍制度は上記の通り、中華統一に夢焦がれる昭王に対する絶対的な忠誠心と六将・胡傷の軍略による苛烈な侵攻によって6国を震かんさせたと言われる。
秦国としては武威の象徴であり、国民の心の拠り所のような存在でもあるため、特に王齕や摎の敗北は箝口令が敷かれていた。
また、六大将軍が広く知れ渡ることで趙の三大天や魏の魏火龍など、列国の武威の象徴を示す大将軍を排出する動きが活発化した結果、旧趙三大天・廉頗などが語るいわゆる「黄金の時代」という、戦争の勝敗や国境を超え戦場で生きる一部の大将軍間で絆が生まれた時期があった。
しかし作中開始時点では六大将軍制度が廃止され、元六大将軍は王騎のみとなっていた。
作中の王騎と摎、史実の白起を除き死因は不明だが、作中開始時点で秦国の武威は減衰していると対外的には見られていた。
また、他国の武威の象徴も主に身内で揉めるなどの理由で衰退していた。
そんな中、趙では新たな三大天である李牧を擁立。
李牧は龐煖を擁立し馬陽戦で王騎を討ったが、その後、龐煖を含めた大将軍を相次いで失ったため、李牧は新たに司馬尚を擁立することとなった。
また、魏では、趙から亡命していた旧趙三大天・廉頗を山陽防衛の責のため排斥した上、著雍時点で魏火龍の生き残りも凱孟以外は全滅したため、新たに呉鳳明を魏火龍に立て、武威の象徴を維持している。
ちなみに司馬尚と呉鳳明は六大将軍復活後に擁立されたが、魏と趙はそれぞれ秦国の侵攻が特に苛烈な地域であるため、彼らの存在なくして国家防衛が厳しい状況にあることも示している。
このように軍部間では武威の象徴として六大将軍や彼らを模した称号を持つ大将軍が重要視されていることが理解できるだろう。
一方、軍部間でも邪険に思う者も居る。
合従軍編で蒙驁や張唐が語っており、昭王の時代は、六大将軍以外の将軍の知名度が著しく低くなったため、六大将軍の陰に隠れてしまったことを不満に思う人物たちであった。
昌文君も元々武功自体が少なかった面は否めないが、王騎や摎とともに戦場を駆け抜け彼らから評価を受けていたはずなのに、武官としてあまり評価されなかったとされる。
六大将軍時代の胡傷の弟子だった王翦と昌平君は昭王から冷遇されていたが、そんな彼らを救ったのは呂不韋だった(昌平君は蒙武とともに呂氏四柱、王翦は蒙武の父・蒙驁の軍の副将として、作中で順当に評価された)。
他国では魏加は「王騎ほど多くの人間に憎悪される武将はいない」などと語ったほか、魏火龍の凱孟は六大将軍や三大天などの戦争に対して夢追い人だった彼らに対し否定的な考え方をしている。
また、六大将軍を含め秦国内外を問わず作中の武将はあくまで城を落とすまで(正確には地方文官が派遣され城の統治権を総大将の武将が委譲するまで)が仕事であり、城を落とした後の事務処理などの諸対応、より具体的に言えばたとえ文官が派遣されるまでに自軍が虐殺や凌辱を行なったとしても、その尻拭いあるいは責任を国家や奪取した城に配属された文官などに丸投げしていた。
ただし虐殺ではない殺害行為は必ずしも悪意をもって行う訳ではなく、統治上必要となるためで、当時の社会的に「常識」だった側面もある上、作中で一般的な話として勝利後に取得した城の扱いについて武将には何らの権利も持たず(軍総司令の指示により城周辺の防衛などを行うことはある)、戦国七雄の武将の仕事としてはこれでも適切であることには注意が必要だろう(詳細は将軍(キングダム)も参照)。
上記の通り昭王の時代は六大将軍が戦争の中心であったため、六大将軍から被害を受けた兵も当然多く、特に白起が総大将の長平の戦いは万極軍のような投降兵の遺族を中心に構成された軍が誕生するほどの傷跡を残した。
中華統一のため六大将軍制度を復活させた嬴政や呂不韋に利用された太后も長平の戦いによる秦軍の仕打ちが巡ったことで悲惨な経験をした王族であり、特に嬴政は自身の生い立ちは承知の上で中華統一前後の合意形成を難しくするため、白起のような者を出してはならないと語る。
そして元王騎軍傘下将軍として旧六大将軍制度下から作中の現代まで見続けた騰は、新六大将軍には戦後に生きる人々の生き方に対する責任、即ち戦争の責任も付随すると考えている。
謀反の恐れがあることから、秦国の文官からは反感を示される。
上記で蒙武が上奏した際は呂不韋が保留としたが、その会話の過程は大王勢力も呂氏派も快いものではなかった。
最終目標が全中華民を1つの国家に統一することであるため、少なくとも新制度下ではその過程である戦争の内容も重要視しており、特に桓騎が影丘で虐殺した報告を受けた際、李斯などの文官も怒号をあげて桓騎の非道を糾弾しようとしたが、嬴政も声を荒らげて議論になりそうな流れを断ち切り、自らが桓騎を断罪するために影丘に直接赴いている。
六大将軍筆頭。名実共に最強とも言える武将で、長平の戦いにて趙軍40万人を生き埋めにした。その後自害する。
上記の通り長平の戦いは六大将軍制度、あるいは後世の中華統一の過程において多大な影響を与えている。
作中開始時点で生き残っていた最後の六将。
六大将軍制度の戦争の自由によりどこの戦場にも現れ猛威を振るったことから『秦の怪鳥』と呼ばれ恐れられた一方、昭王の晩年もまた戦争の自由(白起と同様に戦争に参加しない自由の可能性がある)により従軍していない。馬陽にて戦死。
六大将軍の紅一点だが、現役の頃は諸事情により女性であることは伏せられて知れ渡った。
苛烈な攻めを得意とする将だったが、作中前の馬陽で龐煖に討たれ戦死。
軍略の才のみで六大将軍になった。昌平君の軍略の師。死因は不明。
六大将軍が起こす戦争の大枠を作り、他の5人を操っていたとされる。
六大将軍随一の剛将。ある人物に負けたと語られる。死因は不明。
現状言及なし。史実によると昭王以前の時代から活動していたため、六大将軍の中では最高齢だった可能性もある。
第一将。白老・蒙驁の息子であり、蒙恬・蒙毅の父。秦国一の剛将で、天下最強を自負するが、一方で軍事以外の細かい事情に対し融通が利かない印象が強い。
上記のように作中の六大将軍の言及自体は蒙武が最初だが呂不韋によって保留にされた。
仮に毐国の決着で呂不韋政権になった場合は、呂不韋の思想から六大将軍制度の復活は無かった(あるいは実現したとしても呂不韋が目指す経済圏の武威の象徴であり、中華最強の武将としての意味合いは薄い)可能性もある。
第二将。王騎軍の副官であり、王騎の死後王騎軍を任された。呉鳳明曰く、秦国で唯一地に足のついた将軍。
かねてから昭王に仕えてきた王騎の後継だけあって嬴政の中では特に信頼できる将軍でもあり、桓騎が影丘で起こした大量虐殺や肥下・番吾の敗戦を経て、人や食料が枯渇していく中で韓攻略を託せる相手として納得の選出と言える。
第三将。王賁の父。蒙驁の副官であり、その時既に六将級の実力だったが危険思想のせいで日陰に追いやられていた。
桓騎とは同じ蒙驁軍副将だったため、鄴や肥下(閼与城まで)のように桓騎のストッパーとしての役割もあったと考えられる。
第四将。秦の西に広がる山界に生きる山の民を統べる『死王』。新六将の紅一点。
蕞防衛の時点で「大上造」の爵位を与えられており、黒羊編の直前から事実上の秦国大将軍として頭角を現している。
一応山の民が棲む山界は秦国内ではあるが王都奪還編以前は国交が断絶されており、ある意味では嬴政の「国内国外・身分を問わず未だ野にうもれた才能を拾いあげる」思想を体現した選出と言えるか。
第五将。蒙驁の副官。元野盗団の頭目であり、独自の戦術により勝ちを重ねてきた。肥下で戦死。
桓騎の選出は李斯が忠告したように問題視されていたが、同じ蒙驁軍副将の王翦の存在や、桓騎を除いたとしても戦の強さで比肩する人物が見当たらないために選出せざるを得なかった模様。
なお、現時点で第六将は不在。嬴政曰く「五人に比肩する者が見当たらなかった」とのこと。
公式ガイドブック『英傑列記』では旧六大将軍制度について「自由に戦争を仕掛ける権利」「自由に戦える権利」という言及があるものの、新六大将軍制度において前者の権利があるかは疑問が残る。
上記の「解説」の通り作戦立案自体は咸陽で行うため、戦争を仕掛けるとしても軍総司令の許可や作戦立案が過程として不可欠だからであり、新六大将軍制度が復活した影丘以降の趙攻略編では趙への侵攻が大半を占める。
例外は什虎攻めと韓攻略だが、何れも趙攻略を円滑に行うのが目的である上、これらは描写から明らかな通り軍総司令・昌平君が大王・嬴政に打診した上で作戦の立案や実行に移っており、六大将軍からの発案で戦争が行われた事実は無い。
このため新旧六大将軍制度で「自由に戦争を仕掛ける権利」について整合性を取るなら、旧六大将軍・胡傷が軍総司令を兼ねていたと仮定すると良いかもしれない。
他の六大将軍、あるいは六大将軍兼軍総司令・胡傷が発案して、昭王が許可を出し、六大将軍を中心に作戦の立案と実行を行なったと考えるなら、旧制度の「自由に戦争を仕掛ける権利」は正しいし、新制度においても同じ過程で六大将軍が発案して戦争を起こすことも有り得ることになる。
公式ガイドブック『戦国七雄人物録』によると、六大将軍は嬴政が率いる秦軍に新世代の武将が6人居たことで、彼らにニックネームを与えたくて構想が始まったとされる。
ただ、作中開始時点でその新世代の武将らはまだ将軍ではないため、元から存在していたという設定にし、それを新世代の6人が引き継いだ方がドラマチックだと思って、王騎らの世代に六大将軍という名前を移した上で、白起や摎といった有名な武将などを入れて旧六大将軍のメンバーを集めたようだ。
しかし、史実で有名な蒙驁はちょうど旧六大将軍と新六大将軍の間の時期に活躍していた武将である上、息子の蒙武や蒙恬もまた史実ではエリートだったため、逆に蒙驁のキャラを努力系の苦労人にしようと考えた他、将軍らしからぬ言動を繰り返したことで人間味が増し、より旧六大将軍を引き立てることに成功したという。
このため六大将軍によって作中の蒙驁の設定が生まれたと言っても過言ではないばかりか、蒙驁のキャラクターによって六大将軍という設定が引き立つ結果にもなっているため、まさにお互いがお互いに不可欠な存在になったと言えるか。
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