概要
秦国の名家・王家の嫡男である王賁が率いる部隊。
作中開始時点では「玉鳳隊」と呼ばれているが、鄴出征後の論功行賞にて王賁が将軍に昇格したことで「玉鳳軍」になった。
ただし作中のキャラクターの呼称では「玉鳳」が主流で、「玉鳳軍」と表記されるのは単行本のあらすじなど作中描写の解説の方に多いため、本編だけを読んでいると気づきにくいかも知れない。
以下の記載は原作に倣い、鄴攻略以前を「玉鳳隊」、影丘以降を「玉鳳軍」と記載する。
作中で初登場した時点では三百人隊だったが、朱海平原の戦い12日目の玉鳳隊の檄などで言及がある通り、元は飛信隊や楽華隊と同じく独立遊軍の特殊百人隊として結成されている。
士族出身という育ちの良さに満足せず、戦地に率先して赴く者たちだけで編成されている(キングダム公式ガイドブック『英傑列記』)ようで、単純な武力は並の士族よりも高い。
また、王賁が王翦の息子、つまり王家の宗本家なだけあって財力があり、三百人隊の時点で鎧を全員着用しているのは当然として、騎馬隊が既に存在していた他、井闌車(せいらんしゃ)を用意するなど強力な部隊として山陽攻略で武功を立てる筆頭として考えられていた。
輪虎による千人将狩りというイレギュラーが起こったために抜擢される臨時千人将についても、蒙驁は抜擢しても異論が無いと判断するほどであった。
単純な武力は勿論だが、知略の面も秦国軍の中では優秀な部類にあたる。
合従軍編では昌平君が一目置く軍才を持つ蒙恬と同じ考え方により媧燐の策から脱し、著雍は実際に王賁の策により全体の勝利に繋がったが、これらはいずれも騰が総大将として指揮を執っており、特に後者は騰をも納得する論拠をもって攻略が可能と提示できたのが大きい。
また、影丘は玉鳳軍自体の被害は大きいものの丘取りに有利になるよう命懸けで情報を飛信隊に伝える、鄴と番吾は王翦の救援や飛信隊を含めた援護を考えつつ早々の撤退をはかるなど、要所要所で堅実な働きを見せている。
特に番吾では飛信隊を今後のキーパーソンと捉えているからこそ優先的に逃がす判断をし、それに対して軍総司令並の視点と評された。
しかし武功を立て続けられた最大の要因は、王賁の「天下の大将軍」になるという夢と父や分家の王騎に依らない王家としての責務が根底にある。
前者は信のように「天下の大将軍」を志す契機の描写に乏しいため詳細は不明だが、著雍にて「天下の大将軍になることが王家の正当な後継ぎとしての責務」と考えていることが明かされている。
後者は父の王翦が「自分の国を作る」という野望を持ち冷遇されていた過去や、王騎が「天下の大将軍」という偉大な功績を持った人物だったことを踏まえると、これらの両極端な評価に依らない王賁自身の評価が欲しいと考えるのは自然に思われる。
また、当然ではあるが玉鳳隊はあくまで王翦や王賁の関係者あるいは身内だけで構成されている訳ではないため、有り体に言えば複数の武力を持った金持ちを一手に引き受けているとも表現できる。
金持ちの彼らにとって自身の家紋を守るために武功が必要と考えれば、王賁自身の責務も必然的に大きくなるのかもしれない。
武力も財力も兼ね備えた強力な部隊だが難点もある。
それは、エリート意識の高さにより協調性に欠けること。
農民中心の飛信隊とは信が将軍になるまでは衝突も見られた他、同じ士族の蒙恬とも距離を置こうとする節が見られる。
ただし、著雍2日目の夜に羌瘣が語ったように王賁の策は身を切る傾向が強く、他の隊では躊躇しかねない策もある。
この背景には上記の責務にも関係し、自身の策による失敗は確かに戦犯に匹敵するものもあるし、周りから見れば失敗するのが目に見えていたり無理だと考えたりするが、だからこそそれらの考えを覆すことで名が上がりやすい、即ち「天下の大将軍」に繋がると考えているため。
戦争は必ずしも勝てる保証は無い、というより『キングダム』の作中では史実と異なり全て秦国側が不利なものとして描写していることから、作戦には常に失敗のリスクが付きまとっている。
その上、勝てる戦いしかしないのであればそれこそ父親の王翦と同じ考え方になってしまい、父を超えることができなくなってしまう。
王賁が父に対してどのように考えているのかは未だ明確ではないが、「天下の大将軍」を目指す上で目の前にいる大将軍の戦い方は常に意識しなければならない。
しかしあくまで王翦のやり方では「天下の大将軍」になれない(事実、「天下の大将軍」になれる機会だった昭王の政権下で王翦は知略があったにもかかわらず冷遇されていた)ために、王翦を上回るには必然的に王翦と同じ考え方から逸する必要があるのだ。
無論、無茶苦茶な策を玉鳳だけで行なう分リスクも大きく、武功を得る代わりに戦いの度に王賁などが負傷する描写が目立つという弊害も生んでしまっている。
また、難点とは言い難いが、機転が利きすぎるために周りの補助に徹するあまりに敵将を討つ機会を逃しがちで、敵将を討つことによる武功は少ない。
番吾の時点で討ったのは、著雍の紫伯、朱海平原の尭雲、影丘の亜花錦の紀章くらいに留まっているが、この機転により秦軍全体の被害を最小限に食い止められている面も大いにあり、これもまた評価されていることを忘れてはならない。
来歴
玉鳳隊の結成時期は不明。
しかし上記の通り士族ながら戦地に率先して赴く者たちだけで編成されているため、元々王家が武家一族なこともあり、結成以前から練兵していてもおかしくはない。
紀元前242年(始皇5年)、山陽戦に投入され、井蘭車で道中の攻城戦で大いに武功を立てた後、輪虎の奇襲により武将不足になったことで王賁が臨時千人将に抜擢され、戦後の論功行賞で正式に千人将となった。
紀元前241年(始皇6年)の合従軍編では戦前に二千人将に昇格していたが、函谷関防衛15日目、媧燐の策に嵌った録嗚未軍と干央軍の代わりに蒙恬とともに臨時五千人将に抜擢され、媧燐の目的に沿ってなかった事情もあるが、騰軍本陣の窮地を救ったことで戦後の論功行賞を経て三千人将となった。
紀元前239年(始皇8年)、著雍戦に投入され、詳細は左記のリンクに譲るが王賁の策により勝利し、戦後に五千人将に昇格。
紀元前236年(始皇11年)、鄴戦に投入。主に朱海平原の戦いで秦軍右翼にて活躍し、亜光軍の窮地を救ったり尭雲を王賁が討ったりなどの尽力によって朱海平原の戦い及び鄴に迫る趙軍の迎撃を食い止め、戦後の論功行賞を経て将軍に昇格した。
紀元前234年(始皇13年)、影丘戦に投入されたものの、8日目に飛信隊が影丘に増援に来た時点で王賁は瀕死の重傷を負い倒れていたが、この間に影丘の地形でどこが弱いかを命懸けで探っており、その情報を飛信隊に託して戦線離脱した。
翌年の紀元前233年(始皇14年)の宜安攻めには参加していないが、王賁が致命傷を負ったのを始めとして影丘の戦いの被害が想定以上に大きかったため、武城城と平陽城の防衛に回されていた。
紀元前232年(始皇15年)、番吾戦に投入。青歌軍の想定以上の強さにより王翦軍がほぼ全滅する大敗を喫する中、王翦を含めた迅速な撤退に成功し、飛信隊や玉鳳軍などの被害を少なく留めた。
紀元前231年(始皇16年)、飛信隊と騰の連合軍が韓攻略を行なう中、それを阻止せんと国境の河川から迎撃しようとする魏軍と対峙する。
主要構成員
玉鳳隊百人将(結成時点)→三百人将(山陽前)→二千人将(合従軍編)→三千人将(著雍)→五千人将(鄴)→玉鳳軍将軍(影丘)→大将軍手前(韓攻略)
隊長。作中では珍しく得物は槍。
また、「龍指(りゅうし)」「龍巣(りゅうそう)」という作中では珍しい必殺技の名称も存在する。
上記の通りエリート集団の隊長だけあって、王賁の修練は少年時代から始まっている。
著雍戦の回想で王翦から槍の使い方を少しだけ教わり、以降は番陽が槍使いの講師を付けたことで本格的に槍術を学ぶ。
その修練の日々の積み重ねにより、同戦いでは最終的に魏国史最強の槍術師と言われる紫伯を討った。
槍の利点はピンポイントで相手の急所を攻撃できることにある他、素早い攻撃と手数により相手を討てることにある。
王賁の場合はさらに紫伯戦後に刺突の威力も増しているらしく、その強化された腕力が恐らく鄴編の尭雲討伐に繋がっている。
- 番陽(ばんよう)
玉鳳隊の頃からの副長(階級は不明)。王賁の教育係で老練な武将。
王賁に心酔しているが、やや傲慢な性格。
飛信隊や楽華隊に対しては王賁以上に辛辣な言葉を浴びせるが、内心では信や蒙恬の実力を認めている。
鄴編では、朱海平原戦9日目に討たれかけるも信に助けられた。
影丘の戦いでは、岳白軍に討たれかけたところを羌礼たちに助けられた。
- 関常(かんじょう)
王翦軍千人将→玉鳳隊千人将(著雍)→玉鳳軍傘下将軍(韓攻略)
元王翦軍所属で、著雍戦の半年前に加入。
よく軽口を叩き不真面目な印象が強いが、実力は将軍に匹敵し、実際に韓攻略時点で千人将から一気に将軍に昇格している。
作中では王賁の逆張りの意見が多く、かつ王翦絡みの発言も見られることから、王翦からの監視役と思われている。
また、元王翦軍所属のために王翦軍についても詳しく、王賁に王翦軍の将軍のことや軍の特徴などを教えている。
鄴編では、朱海平原戦13日目に雷獄に捕まった王賁を逃がすために、尭雲の前に立ち塞がって重傷を負うが、15日目には負傷した身体を押して復帰。
影丘の戦いでは王賁を逃がすため囮となり、その後に羌瘣の援護に向かう。
なお、キングダム公式ガイドブック『戦国七雄人物録』では、遅くとも影丘の時点で玉鳳軍に正式配属となったらしく、それまでは王翦軍に戻る可能性もあったことが示唆されている。
2024年2月17日放送のフジテレビ番組「MUSIC FAIR」にて、デザインのモデルは、作者である原泰久と親交が深いスキマスイッチの常田真太郎氏であることが明かされた。
鎧もスイッチをイメージしたデザインとなっている。名前も、常田の『常』とスキマスイッチの『すき間=間』を中国っぽく変換して組み合わせたもの。
王翦軍傘下亜光軍千人将(鄴)→玉鳳軍千人将(影丘)→三千人将(番吾)→傘下将軍(韓攻略)
元亜光軍所属で、その時は「悪童」の蔑称で呼ばれ、その性格難のため千人将に置かれていたが、関常に軍才は亜光軍一と評価され、その戦術眼は関常と並び玉鳳隊きってのもの。
そもそも亜光軍で伸びなかったのは、亜光が頭を使った策をあまり好まない性分なのが大きいと思われ、玉鳳軍に転属してからは上記の通り階級を伸ばしている。
朱海平原決戦2日目に王賁を援護(ちなみにこの初登場回のサブタイトルはそのまま「亜花錦」である)し、9日目には窮地の亜光を救出。
14日目は馬南慈の足止めに専念しつつ、信による趙峩龍討伐の報を聞くと、すぐに段茶に突撃の指示を出し、自身は潰れ役になりながらも馬南慈軍を半壊させた。
15日目には、馬南慈軍を段茶と共に足止めしていたが、飛信隊が金毛軍に苦戦しているのを見ると、段茶の命令で援軍に向かい金毛軍を撃破し、飛信隊らと共に李牧軍を攻撃する。
鄴編後、亜光軍から玉鳳軍に転属。玉鳳軍でも命令を無視した勝手な行動が目立つが、王賁は黙認している。
影丘の戦いでは、別動隊を率いて険しい道のりを3日かけて進み、敵左翼側面に到着すると飛信隊が岳白軍右翼を攻めている隙に、逆の左翼を攻めて挟撃を行う。
岳白が信に討たれると、敵軍本陣に急襲を仕掛け、趙将軍・紀章を討ち取る。
- 松琢(しょうたく)
将校。関常の側近。
下記の宮康とは長年共に戦ってきた間柄で、「兄弟」と呼び合うほどの絆がある。
朱海平原戦の13日目に王賁を死守し、自分に代わり捨て身の殿軍を買って出た宮康に王賁を託され、その最期を看取る。
その後は「十槍」を討つことに執心する。
影丘の戦いでは、羌瘣の援護に向かう。
- 黒金(こくきん)
騎兵。血気盛んな隊員で、著雍の戦いでは魏火龍に対して軽はずみな発言をし、番陽に注意される。
- 毛順(もうじゅん)
騎兵。槍使い。
朱海平原の戦いで左手の指を2本失う。
- 宮康(きゅうこう)
将校。関常の側近。
間延びした喋り方をする。
朱海平原戦13日目に尭雲に敗れた王賁を救うべく捨て身の殿を引き受け、「十槍」に討たれ戦死。