曖昧さ回避
- 肥下(ひげ):大阪府に見られる日本の名字。全国で約20人程しかいない希少な名字である。
- 肥下(ひか):現在の河北省石家荘市晋州市の西に位置したとされる中国の地名。歴史上では肥下の戦いがあったとされ、検索サイトで「肥下」を検索すると真っ先に肥下の戦いのWikipediaが表示される。当記事では漫画『キングダム』における左記をモデルとした戦いを解説する。
概要
漫画『キングダム』における戦いの一つ。
上記の通り史実に存在し、本作は『戦国策』趙策四を基にしている。
余談
第752話「聖地へ…」が週刊ヤングジャンプに掲載された2023年3月23日のTwitter上では「桓騎」がトレンド入りした。
実写映画の公開により「キングダム」という単語がトレンド入りするのはよくあることだが、漫画の展開により『キングダム』関連の単語がトレンド入りするのは極めて珍しい。
実は宜安城侵攻を軍議で決定する際、昌平君が昌文君らの「宜安は北すぎる」などの疑問をはねのけて宜安城侵攻をゴリ押ししている(昌平君の台詞としては珍しく「!」が付く台詞を発している)。
昌平君は過程の説明で「最大の敵"楚"との戦いに全力を注げなくなる」と発言したが、ここで注意しておきたいのは、昌平君が楚出身の人物であること以上に楚軍の軍容を詳しく知る人物が昌平君以外の秦国文官に存在しないことである。
『キングダム』の作中では楚国に侵攻した描写が明確なのは什虎城のみ、かつ合従軍編で侵攻された際、現状の大将軍である媧燐と廉頗が明らかになった以外に、秦国の文官は楚国の軍容に対する理解が乏しい状況が続いている(将軍は什虎の3人や汗明軍の生き残り、項翼・白麗も居るが、いずれも交戦経験が少ない)。
このため楚攻略までの軍略を考えた際に、趙最北部の雁門城にまで目を配り軍を全力で興せない状況というのは、単純な数において楚に劣っている秦軍においては致命的な要素と捉えているようであり、後顧の憂いを取り除くために宜安侵攻を強く推したと考えれば合点がいくだろう。
ちなみに、昌平君が楚軍が絡む場合に目が変わったような考え方をしたのは、今回が初めてではない。
合従軍編では楚軍を「最大の難敵」、特に総大将を務めた汗明は最強と考えていた。
しかし、蒙武が汗明を討ったことで函谷関防衛を決定的にし、その後蒙武軍が斉に侵攻する合従軍の背を攻撃したことで、論功行賞にて蒙武に第一功を与えている。
なお、蒙武軍に対し合従軍の背を攻撃するように命じたのも昌平君であるが、蒙武軍は騰軍とともに函谷関の平地に布陣し合従軍の後ろを迅速に攻撃できる状況だったのに加え、傘下将軍の犠牲が無かったために軍全体の被害が特に少なかった(対して蒙武と同じ現場で戦った騰軍は、鱗坊と同金を失う、蒙恬と王賁を臨時五千人将に抜てきしなければならなかったなど、被害が大きかった)のが理由と考えられる。
ところで、馬陽編の時点で設定上、山の民は既に雁門城に迫るほど山界を侵攻できていたのだが、本作では侵攻ルートとして一切考慮されていない。
理論上、趙国北部の騎馬民族を相手にする可能性はあるものの、雁門城に侵攻するだけならわざわざ狼孟城方面から侵攻せず、趙山部から侵攻する選択肢もあった。
単に史実に沿ったと言えばそれまでだが、作中の事情を鑑みてもこのルートは厳しいと考えることができる。
山の民は年始に奪取した武城城と平陽城の防衛に充てていたが、城防衛の代わりに趙南部から北上させ山界侵攻の主攻にし、山の民に加え太原からの20万の兵を楊端和が率いれば、雁門城へ侵攻できる程度の軍勢を生み出すことはできる。
この場合、武城城と平陽城の防衛はそもそも出撃できない玉鳳軍に任せるのが妥当だろう。
しかし、王翦軍と桓騎軍は作中の展開通りなら太原の増援ありきで宜安城を侵攻する流れのため、閼与城の侵攻までは行うとしても、宜安城・赤麗城・肥下城の侵攻を放棄することになる。
なお、このルートの場合、王翦軍と桓騎軍が宜安城以降を侵攻しないことは、軍容からして李牧軍は読むものとして考えるのが筋である。
というのも桓騎軍は影丘の時点で玉鳳軍も含め大幅に戦力を減らしているし、王翦軍も作中の閼与城と同じ展開になると仮定するなら、大ダメージは避けられない。
その上で李牧軍は山の民・桓騎軍・王翦軍の軍容を把握できていることから、宜安城と雁門城の防衛に徹するとしても、雁門城側は上記の通り元々が強力な軍のためまず落ちることは無いと考え、宜安城も赤麗城と肥下城の援軍込みなら王翦軍・桓騎軍よりも兵数は多くなるため落とすのは困難を極める、というより宜安城は侵攻しないと考えるため、結局は雁門城に注力すれば済むという結論に至るのだ。
山の民についても、わざわざ趙北部の山界まで大移動させた上で李牧と直接対決させるのは当然リスクも高く、ただでさえ疲弊している山の民に加え、太原に集めた秦兵は実戦経験が無く練兵も乏しい中、果たして雁門城どころか趙北部の騎馬民族を相手に被害を最小限にして勝つことができるかという課題に直面するが、鄴の楊端和の戦いを見る限りでは犠牲が少なく済む保証はどこにもない。
以上を想定すると山界を経由する選択肢も無くなり、作中のルートが最良だった(というより李牧の想定通りの流れになった)と考えることができるのである。