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毐国

あいこく

毐国とは、紀元前239年から紀元前238年の秦国に存在した国家。ここでは漫画『キングダム』に登場する左記をモデルとした同名の国家が登場するストーリーである「毐国反乱編」について解説する。
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史実編集

秦王政の時代に存在した秦国内の半独立国。嫪毐が封ぜられた国で国都は太原。嫪毐の乱で滅亡した。

漫画『キングダム』の「毐国反乱編」で登場したが、同じく嫪毐の乱を扱っている『横山史記』や『達人伝』では触れられていない。


以下に述べる概要はあくまでも『キングダム』内における概要であり、史実とは異なっている点に留意されたい。

史実の「毐国」についてはこちらを参照。


概要編集

著雍攻略編の後、毐国が建国され、翌年に毐国の国王・嫪毐が秦国に対して反乱(嫪毐の乱)を起こし、秦国がその反乱を食い止め秦の国内を統一するまでのストーリーを「毐国反乱編」と呼ぶ。

ヤングジャンプ誌上では主に「嫪毐の乱」、アニメ版では「毐国反乱編」と呼んでいる。

また、『キングダム』のWikipediaでは遅くともアニメ第4シリーズ終了前までは「毐国動乱編」と銘打っていたが、現在は「毐国反乱編」で紹介されており、本記事も『キングダム』のWikipediaに追随する形で「毐国反乱編」として掲載している。


原作漫画は40巻の最後(第437話)まで、アニメでは第4シリーズ第13話から第24話に相当。

また、第13話からOP・EDともに変更されている。


ちなみに、本ストーリーは史実における嬴政の加冠と帯剣の礼もモデルにしていることから、作中で加冠の儀とも呼ばれる。

一方、加冠の儀とは、秦国の旧都・雍で行われた嬴政の戴冠式のみ(作中ではさらに天備宮での嬴政と呂不韋の対談も含む)を指すため、漫画やアニメにおいて本ストーリーの全体を説明する単語としては使われていない。

嬴政と呂不韋の対談は作中における重要な話であるため、本記事では嫪毐の乱を解説した後、対談は別に解説する。


以下はネタバレになります。閲覧には十分注意してください。


嫪毐の乱編集

紀元前239年(始皇8年)、著雍攻略戦の2か月後、太后(後宮勢力)が山陽・著雍一帯に金を落とすため、上層部を後宮勢力で固め、山陽の長官を嫪毐に替えると宣言。

昌平君李斯の命により朱凶が放たれ、彼が秦の旧都・雍にて嫪毐と太后が語った内容によると、嫪毐と太后の間には子どもが居る上、太后は「国を創る」と言っており……?(ちなみにこの朱凶は暗殺されるため大王勢力がこの真実を知ることはないはずだが、詳細は下記の「余談」を参照)

その後、大王勢力も(呂不韋を除く)呂氏派も真意を掴めないまま、太原に、著雍で働いていた飛信隊も含めた兵や流民、さらには嫪毐と太后も向かったと介億は知る。

太原は山陽屯留・著雍の更に北、秦国では最北端に位置する都市であり、とも隣接していることから軍事的にも重要拠点ではあるものの、秦の侵攻先がに集中したため、近年はそこまで注目されなかった土地だった。

そして資金も人も物資も流れ着き、嫪毐と太后が太原に入ると、間もなく太原一帯を『毐国』とする宣言がなされた。

秦国首都・咸陽も国家反逆であると大荒れし挙兵も考えたものの、屯留の戦いからまだ半年しか経っていない中での内乱、さらに被害も屯留以上の規模になると予想されたことから、太后の意図を探る必要もあった点も含め、目立った動きは見せなかった。

一方、毐国側は政治も軍事も金で買うことで日に日に勢力を増し、あまつさえとも密約を交わしていた。

楚が秦を攻撃することで、秦国側は対楚の防衛せざるを得なくなり、太原に兵を送れなくなってしまった。

楚としても毐国と合わせて秦国の南北を挟み撃ちできる状況となれば秦の侵略に都合が良い上、戦国七雄の各国(趙・韓・)にとっても秦の勢いが落ちる、あるいは秦が滅亡すればこれ以上は侵攻されずに済むため、何なら秦が認めなくても他の戦国七雄が認めれば、毐国は実質的な国家となり、毐国は他国の支援を得やすくなるのである。

外交官が毐国への挨拶のために呂不韋を通すか嫪毐を通すか迷うほど、毐国の勢力拡大を止められないまま時が過ぎる一方、毐国内もまた、規模の拡大が太后の予想を上回る事態となっていた。

楚出身の大臣・虎歴は嫪毐に対し、咸陽を落とすための絵図を作らないかと持ち掛けたのである。

だが、嫪毐は太后の意思を汲み取り、戦いには反対していた。


太后が嫪毐との子を産む決断をした時、毐国を自身が心を休める場所にしたいという願望があった。

元恋人の呂不韋や一応実子の嬴政がともに自分を脅かす存在となっている状況のため、どちらの勢力にも与することはできない状況な上、過去のしがらみからの脱却も図りたいらしい太后にとっては、どちらの近くだろうと居ることさえ望まないのである。

また、後宮も含めた秦国内は常に朱凶などが徘徊するなど、出産後の子どもを何年も匿える場所ではない。

そうなると子どもを安全に育てるには、国外に出る、あるいは国内で新たに秘匿できる場所を作るかのどちらかとなる。

しかし、隣国は長平の戦いの影響で散々な目に遭った趙である上、南下した所で魏・韓・楚は激戦区であるため心を休める余裕はない上、身分を隠すには難しい立場であるため、国外に出る選択肢はまさに「破滅の道」を早める結果となると思われる。

このため残る選択肢は、国内で新たに秘匿できる場所を作る、となる。

秦国内ながらも大王勢力や呂氏派にさえ干渉されない不可侵領域を維持し続けることで、「破滅の道」であることは承知の上でそこまで長くは続かないだろうと悟りながらも、少しでも長く自分の心を休める期間を確保したかった、これが毐国建国の真相になると思われる。


しかし、元々楚国のスパイである虎歴はそんな意図を汲み取ることは無いし、太后の願望も虫が良すぎたことを悟る。

紀元前238年4月(始皇9年)、虎歴は秦国に実子の存在が露呈し、挙兵の準備を始めたと嘘をつき、実子を人質に取り、嫪毐と太后に対し挙兵を迫った

反対すれば嫪毐と太后や実子をさらし首にした後で咸陽に首を届けて許しを請うという選択肢のため、加冠の儀の最中に咸陽を陥落し、王位を太后の隠し子に与えるように新しい王朝を打ち立てるまで付き合ってもらうという条件で、太后は挙兵を宣言した


加冠の儀の当日は咸陽から離れた旧都・雍で執り行われる関係から、函谷関の防衛すらも手薄となる。

この理由は、他国の王族や宰相などの要人も加冠の儀に出席するためであり、国内の衛兵を雍にも集中させているから。

無論、複製の玉璽こちらの記事の冒頭にある「白紙の書簡」に使われた玉璽を複製したと昌文君は推測した)を用いて咸陽の防衛にあたると嘘をつけば、函谷関は通れるのは当然だが、道中で「大王の命令」と言いながら反乱軍の兵数を増やすことができるという厄介なおまけまで付いてくる。

函谷関や咸陽の衛兵は、従えば反乱軍の一員として汚名を着せられ斬首だが、従わなくても反乱軍に即死させられるという2択を突き付けられるため、どちらにしても詰むという地獄絵図であった。

加冠の儀の途中に毐国の反乱軍が咸陽に向け迫っているとの報を受け、呂不韋は式典を終わらせようとするが、嬴政は「反乱軍を止める軍は用意してある」と言い、加冠の儀を貫徹した。

嬴政が用意した軍は、飛信隊と、合従軍の時に嬴政が率いた蕞の人々(兵数1万)、合計1万1千の軍勢で、3万にまで増えた反乱軍を迎え撃つが、飛信隊は著雍に置いてきたり太原に向かわされたりなどで連れてきた兵数は1千に留まった上、渡河の最中に舟から転落した戦線離脱者や死者を延べ1千5百人も出したため、実際に咸陽防衛に行けた兵数は飛信隊と蕞兵を合わせて9千5百に留まった。

加冠の儀が終わった時点で反乱軍は咸陽に突入しており、加冠の儀に同席していた昌文君やも飛信隊に加勢しようとするが、昌平君もまた昌文君とともに反乱軍の鎮圧を進言、即ち呂氏派から離反したのだ

だが、呂不韋は昌平君の離反に動じることがないどころか、この事態に一喜一憂する諸国の要人も含め「愚か者」と評し、嬴政に場所を変え2人きりで"天下"などについて語らいませぬかと言った(以降は「対談」を参照)。


反乱軍の真の狙いは嬴政の娘・扶蘇の命を奪うこと。それを阻止すべく飛信隊も咸陽に辿り着き、反乱軍と交戦。

さらに咸陽から現れた昌平君直下の近衛兵の参戦により、飛信隊らは優勢となった。

反乱軍の将軍・ワテギを昌平君が討つとともに、昌平君の策により敷いていた包囲網を解き敗走を促したことで、咸陽の防衛に成功した。

後日、敗走した反乱軍は桓騎軍とぶつかり、首謀者である嫪毐などは咸陽に連行された。

そして嫪毐は咸陽で衆目が注目する中、呂不韋の手引きで偽の宦官として後宮に入ったことなどを洗いざらい自供し、死刑に処されようとしていた。

太后は嫪毐と、嫪毐との間に産んだ実子(この2人も死刑が確定している)を守るため、嬴政に土下座して救いを求めたが、その嘆願が聞き入れられず嬴政に対し罵詈雑言を述べながら短刀を向けるが、衛兵に取り押さえられる。

あまりの醜悪さに、嬴政の妻が涙を流しながら「大王も自分の御子であるにもかかわらず、今のように2人の御子を助けようとする熱意や愛情を向けないのはふざけている」(要約)と太后に怒りをぶつけた。


その後、嫪毐は自らの死を悟り、太后の力になれなかったことを悔やみつつも、太后に笑顔を見せ処刑された。

反乱軍の中心人物や呂氏派を中心に数百人を斬首し、毐国の建国や発展に貢献したなどの理由で関与した4千余家の人間が蜀に島流しされた。

太后の実子も処刑される予定だったが、実は最後まで処刑に反対していたのは嬴政だったことも判明した

表面上、処刑は敢行されたものの、秘密裏に城外で匿っており、国内が落ち着いた時に再会させると太后に約束している。


こうして嬴政・呂不韋・太后を巡る複雑な関係性も、各勢力の覇権争いも、力づくで決着をつけ、新しい政権が始まったのであった


毐国の概要編集

紀元前239年、秦極北部の都市であった「太原」に、秦国・後宮勢力や楚国などが財力を注ぎ込み、後宮勢力の長・太后及び偽の宦官として後宮勢力に送り込まれた嫪毐の宣言によって成立した自称の国家である。

現代で言えば株式会社のように出資者がお金を注ぎ込んだことで生まれ、実質的にその地域のインフラや産業を支える大企業に至ったと考える方が良いだろう。

人里から離れているため自然に溢れた土地であるが、裏を返せば北部の趙国や趙の山岳地帯に隣接する危険地帯とも言える。


作中では趙北部の侵攻に活用するための重要都市として位置付けられていたが、昌平君は山陽を中心とした中華全土への侵攻を構想していたため、毐国反乱編時点では趙への侵攻はまだ本腰を入れていなかった。

このため重要都市という位置づけでありながら、人や物資、それに伴う財源はそこまで重要視されていなかったようだ。


なお、「太原から趙北部を先に侵攻すれば良いのでは?」と考えるかも知れないが、作中では

  • 趙北部の情報に乏しかったため優先順位として低かった(この点だけは作中で言及された一方、この理由で侵攻を渋ったかは不明瞭)
  • 趙北部は李牧が治めている雁門城や匈奴の巣食う山界が広がっていた地域だったため、単に李牧の情報封鎖の策が長期化している、あるいは情報らしい情報が得られないような田舎でしかない(あくまで雁門城は李牧が防衛しているため現在は平和だが、作中の歴史上は匈奴の侵攻に手を焼いていたため、雁門城以外にまともな城が無い可能性も考えられる)など。そもそも馬陽戦の通り李牧軍は匈奴を討つほどの強力な部隊であるため、なるべくなら相手したくないという心理もあったかも知れない
  • 趙北部を侵攻するためには下記の狼孟城を抜かなければならず、その攻略に時間がかかると想定されたため渋っていた

といった事情があり、趙北部の侵攻は下記の通り後年になるまで行わなかった。


毐国反乱編後の黒羊侵攻は趙西部に位置するが、元々の昌平君の侵攻計画では黒羊を侵攻した後、趙西部を中心に秦国の領土を広げていく予定だった。

ところが黒羊奪取後、李牧が趙西部からの侵攻を難しくしたため、趙南部のを急襲する流れとなった。

結果論ではあるが趙の西部と南部は奪取できたため、順調に行けば趙北部を攻めずに邯鄲まで侵攻できたはずだった。

しかし趙南部も長城によって封鎖されたため、趙南部から北上しつつ太原からの増援も合わせて趙北部を侵攻せざるを得なくなった、というのが本作の趙北部侵攻の流れである。


紀元前238年、上記の反乱により毐国は消滅し、地名は再び太原に戻っている。

また、趙侵攻が本格化したことから太原の重要度も増しており、紀元前232年の番吾の戦いの時点では秦国北東部前線の最大都市にまで発展。

元々は宜安攻めのために20万を超える兵が太原に集結していたが、狼孟軍から奇襲を受けたことで太原に逃げ返ってしまったため、肥下敗戦の一因となってしまった。

番吾攻めでは逃げ返った彼らを再結集し、李信軍と羌瘣隊がそれぞれ彼らの一部(李信に1万5千、羌瘣に7千の計2万2千)を吸収、番吾の初陣と言える狼孟攻城戦を圧勝し、(前年に逃げ返った太原の兵たちにとって)雪辱を果たした形となった。


対談編集

天備宮という、かつて秦王・恵公が独り国造りの試案を深くめぐらすために建てた宮として知られる場所で、嬴政と呂不韋は対等に(咸陽の戦いの結果によって翌日以降の玉座が変わるために、勢力的にも両者の実力的にも対等という位置づけとして)語り合うこととなった。

だが、嬴政は2人で語り合うつもりはなく、新しい朝廷でも大役を担う人材に対しても対談を聴かせるべきと考え、李斯蔡沢瑠衣、そして太后も呼んでいた。


呂不韋は嬴政の中華統一という馬鹿な噂あるいは狂気の願望を、およそ血の通った人間の歩む道ではないと問題視した。

しかし嬴政は「大口を叩いて愚弄するのに、自身は腹の底を見せる発言をしない。何をもって中華統一を狂気と断ずるのか、その理由を自分の言葉で明らかにしろ」と反論。

そもそも呂不韋の真意が見えないのは、自身が真意を見せる発言をしないからであるとともに、今まで「商人」や「丞相・相国」という身分あるいは処世術のために内心を覗かせずに上手く出世できたために過ぎない。

よく言えば世渡り上手、悪く言えば腹黒いのである。

しかし、今回呂不韋が嬴政と語るのは、"天下"についてであるため、当然呂不韋にも自身の目から見た「"天下"像」があるという。


「この呂不韋が"天下"を語る上で、"国"や"民"や"王"、それらの前に、大切なことを明らかにしなければなりません」

「"天下"の起源です」


呂不韋が語る"天下"の起源とは、貨幣(お金)、あるいは貨幣制度である。

ここで東アジアの貨幣について解説すると、紀元前17世紀のの時代のタカラガイの殻を利用した貝貨、殷の後のの時代にはウミガメの甲羅を利用した貨幣があった。

それから紀元前770年から紀元前453年あたりまでの春秋時代に様々な貨幣が生み出されたが、紀元前336年、秦は銅銭の鋳造を国家で行うことを定め、円形方孔の半両銭を正式な貨幣と定めた。

『キングダム』作中の時代は半両銭が主流であり、もっと言えば現代の殆どの国に採用されている貨幣制度に近しい体制でもあった


「"貨幣制度"が"天下を作った"。"金"が人の"欲"を増幅させたからです」


上記の通り、貨幣制度以前の時代は物々交換が主流であった。

しかし貨幣は運搬しやすく腐らないため、物流に距離を与え、散在していた社会を繋げる要因となった。

一方で溜め込んで私腹を肥やすことが可能となったことで、相手はいくら金を持っているのかという『裕福の尺度』が生まれた。

当然、欲深くなると「他人より多くの金や物を得たい」我欲が生まれた。

人々の「社会」という構想は、物々交換で成り立っていたミクロな世界から、中華という広大で複雑なマクロな世界へと進化した。

そして人々は"天下"という言葉を口にし出したという。

かつての世は"天"の恩恵にあずかる世界であり、その"天"の"下"に支配されるものだった。

しかし人間の知見する世界が広くなり、「人間がその手で支配できるのでは」と思わせるものへと変わった。

「まるで金が全てのような物言いだ」と嬴政は言うも、呂不韋はそうであると断定する。


「お前が王になれば人の我欲を至上とする醜悪な世の中になるのではないのか」

「戦争を第一手段とする世の中よりはるかにマシでしょう」


為政者は国民に血を流させてはならないし、国により多くの幸福をもたらすものでなければならない。

呂不韋にとって"貨幣や金"とは国民を操る道具でありそれを利用した政治を行なおうとしているのである。


蔡沢は「"金"でどう国を治め、どう今の中華と向き合うのか」と訊いた。


「全実権をこの呂不韋にゆだねられるなら、私は十年で秦を中華史上最も富に満ちた国に成長させることができる」

「物があふれ返り、飢えなどとは無縁の飽食。秦人全員が人生を楽しみ謳歌する時代です」


「まるで夢のような国じゃ。しかしこの乱世がそれを許すかな?」


「乱世たればこそです」

「この五百年の争乱、人は十分すぎる程「怒」「哀」に浸かってきた。国を問わず人が今渇望するのは「喜」「楽」です」

「ならば秦は溢れんばかりのその「喜」「楽」をつかみ他に示せばよい。他国の人間は必ずそれを羨ましがり秦に流れてくるでしょう」

「他国の王が危機を感じるなら富を分け与える。さすれば王たちも望んで秦の手を握りにくるでしょう」

「刃ではなく富を交わらせて関係を築くのです」

「そうすれば後はやり方は同じ。列国それぞれのもつ資源・産業を循環させる役を秦が担う。秦を中心にすえた中華全体の発展・繁栄」

"暴力"ではなく"豊かさ"で全体を包み込む、それが私の考える正しい『中華の統治』です


蔡沢は(秦なくして経済の回らぬ世にすると…)と思案した。

嬴政の「中華統一」のやり方を批判し、嬴政は目を険しくするも呂不韋は制止し、


「大王の理想とするところは理解できまする。国が一つになれば国家間の争いは無くなると」

「しかしそれは勝利する側の身勝手な夢の押しつけに他ならない」

「もしも武力統一が成ったとしても、残る現実は勝った秦一国と討ち滅ぼされ征服された六つの敗北国」

「その上に満ちるのは残された者達の悲しみと絶望、そして秦への怨念」

「間違いなく中華史が未だ経験したことのない闇の世となりまする」

「そこに何の光があるのです。当然自国民にも多大な犠牲を強いる。それら全てを"中華統一"という夢の代償として"善し"と考えておられるのなら」

「それはもはや狂気の沙汰としか言いようがない」

「それでもまだなお"中華統一"が王の道として揺るがぬとおっしゃるのなら、大王、あなたこそ誰よりも玉座にあってはならぬ人間です」


「お前のやり方では戦はなくならぬ」顔色を悪くしつつも反論する嬴政だったが、呂不韋もそれは認めていた。

戦争はどんな動機であれ参加する以上は何かしらの思いがある。

それは人間の正しい感情に由来するものであり、だからこそ誰も間違っていないが故に堂々巡りとなる

しかし正しい感情の否定は即ち人間の否定である。

故に呂不韋は戦争を無くすことはできないが、幸福を追求し減らすことは可能と主張しているのである。


学者でもない文官としては真っ当な主張を連ねた呂不韋に対し、嬴政は言葉が出なかったが、嬴政の周りに「紫の光の玉」が現れた。

それは嬴政と瑠衣以外には見えなかったようだが、それは嬴政に「あなたなら言えるはずです。力強く、そうではないと」と囁いた。


「お前の口にした為政は所詮"文官"の発想の域を出ないものだ、呂不韋」

「戦に向き合わぬお前の為政、(中略)今の世の延長上にしかない」

「一時和平協定の下"富"で他国とつながろうと各国が力を付けきったところで、再びより大きな戦争期間へと突入する

「五百年続いた戦争時代が結局のところそのまま続いていく」

「手前勝手な「現実」という言葉で問題に蓋をするな。人の世をよりよい方向へ進めるのが為政者の…君主の役目ではないのか」


「よりよい方向とは?」

「戦国時代を終わらすことだ」

「妄想の道だ」と先ほどと同じ主張で批判するも、嬴政は「違う!」と一蹴。


「お前達は人の"本質"を大きく見誤っている」

「たしかに人は欲望におぼれ、あざむき、憎悪し殺す。凶暴性も醜悪さも人の持つ側面だ。だが決して本質ではない」

「その見誤りから争いがなくならぬものと思い込み、その中で最善を尽くそうとしているが、それは前進ではなく人へのあきらめだ!」


嬴政は呂不韋の主張を批判し、呂不韋は「人の"本質"とは一体何です」と問うた。


「人の持つ本質は―――光だ」


嬴政は紫夏に身を挺して助けられた際、嬴政は彼女に強烈な光を見たという。

しかしこの光は紫夏だけでなく、王騎麃公成蟜、あるいは名もない者達にもあり、形や立場が違えど皆一様に自分の中心にある"光"を必死に輝かせて亡くなっていた。

その光を次の者が受け継ぎ、さらに力強く輝かせる。

そうやって人はつながり、よりよい方向へ前進するという。

人が闇に落ちるのは、己の光の有り様を見失うからである。

有り様が見つからずにもがき苦しみ、悲劇が生まれる。

その悲劇を増幅させ人を闇に落とす最大の社会問題、それが戦争であると語った。

故に戦争をこの世から無くす。そうすれば嬴政の次の時代から人が人を殺さなくて済む世界になると信じているからである。


呂不韋は涙を流し、世界に対する認識の前提があまりに違いすぎるため平行線になると議論を切った(描写を見ればわかるが、後に感化していたと自白した)。


余談編集

朱凶を殺した首謀者と大王勢力が反乱を知った経緯編集

毐国が宣言される前の話、嫪毐太后が実子を授かったという話に聞き耳を立てていた朱凶が、ムタのような恰好をした刺客に暗殺されている。

この刺客を放った首謀者の正体は作中では明かされていないが、『キングダム公式問題集』によると首謀者は呂不韋と明言され、その情報が虎歴に伝えられたことで、虎歴は太后と嫪毐に対し開戦を迫る流れに繋がったようだ。


一方、同じ呂氏派である呂不韋と李斯の放った刺客が対立することになるが、この時期は昌平君離反の憶測が飛び交っており、さらに昌平君の周りも監視が強まっていた話があった。

つまり呂不韋には昌平君(ととばっちりだが昌平君が利用していた李斯も)への不信感があり、独自に刺客を送っていたとも考えられる。

それでも李斯は朱凶を絶え間なく送り続け、諜報が成功したかどうかは作中で明かされていないが、大王勢力が毐国反乱軍に動じていなかったことに対して呂不韋が疑問を呈している描写があったため、結局諜報は失敗に終わったと推測することはできる。

しかし、李斯の諜報が失敗し、さらには昌平君に対し昌文君も離反前にコンタクトを取ろうか悩んでいたものの実行に移せていなかったにもかかわらず、なぜ大王勢力が反乱を予測できたのか、それをどのタイミングで、どうやって把握したのかについての疑問は依然として残る。

特にこの問題のハードルを引き上げているのが呂不韋さえも把握していないという事実である。

加冠の儀が行われる年は、年始から大王勢力も呂氏勢力も要人の防衛やスパイの潜入に徹しているため、自分たちの周りの人物がどちらの勢力でもあり得るほど、両勢力が入り乱れる状況だった。

このため王宮内の行動については、どちらの勢力の動きであっても筒抜けなレベルで相手に把握されるはずだが、その上で呂不韋が知らないのだから本当にどうやって伝わったのか読者視点からでも分からない人も居る


結論は、大王勢力が反乱を知った要因は昌平君が飛信隊に暗号文を送ったことに尽きる。

しかしなぜこれにより大王勢力が反乱を知ることができるのかという疑問が生じるが、読み解くポイントは伝令が来た時のと河了貂の反応である。

総司令からの伝令が来た際に、信も河了貂も疑問符を浮かべている。

直前の進軍について河了貂が説明している描写も加味すると、この疑問符の意図は「侵攻先は決まっているのにわざわざ昌平君から伝令が来るの?」といった所だろう。

そしてこの疑問は飛信隊に限らず、昌平君が伝令を送ったことを把握しているはずの大王勢力にも同様に伝わったと考えるのである。

果たして大王勢力がその暗号文の内容を読んだかはわからないし、例え読んだとしても、最終的に解読した河了貂も最初は単なる軍略指令としか考えられなかったほど巧妙な内容であった。

しかし前線に出ていて、かつ侵攻や防衛の方針も固まっているはずの飛信隊に対しわざわざ伝令を送るのは、明らかにおかしい。

この違和感に対する答えが反乱であると察することができたならば、大王勢力にも反乱が起きると伝わるのである。

事実、昌平君が離反し昌文君とともに雍から出陣する際、昌文君は「貴公が飛信隊へ反乱の知らせを送ってくれたことで我らは命拾いをした」と語っている。


一方、呂不韋が把握できなかったのも文官と武将の差であると説明がつく。

軍略の素人である文官の呂不韋にとって昌平君の送った暗号文は、例え実際に読んだとしても単なる軍略指令にしか見えず、まさか反乱の知らせの暗号文なんて思いもしないだろう。

河了貂に暗号文を渡す前に読んだ呂氏勢力の伝令にも暗号文であることは見抜けなかった上、暗号文を直接河了貂にも読ませてなおも気付けなかったのだから、呂不韋が見抜けないのは当然である。

逆に言えば河了貂が暗号文であることを即座に見抜いていたら昌平君の離反もバレて反乱鎮圧自体が不可能になったため、反乱鎮圧に成功した真のMVPは河了貂と言っても過言ではない

それくらい伝令と信・河了貂のシーンは、読者には何気なく思える一方、作中では非常に重要な描写だったのである。

他にもこの暗号文の内容であるなら、太后の実子を大王勢力が知らないままなのも筋が通る(嫪毐の処罰時は流石に大王勢力も含めた大衆が把握していたが)。

太后が起こした反乱は太后の実子の存在が王宮にバレたと噓を流布されたのが発端だが、上記の通り実子の存在は呂不韋によって大王勢力に伝わらないように対処されており、雍に来た時点で昌文君に実子について問い詰められなかったのも、そもそも実子の存在が大王勢力に流れていないから当然なのである。


毐国ホームページ編集

アニメ第4シリーズ当時、キングダムの公式では毐国の公式ホームページが公開されている。

そもそも紀元前にインターネットなんてあるわけないだろ!と突っ込みたいところだが、アニメ第3シリーズからある「キングダムニュース」などの存在を鑑みると無粋なツッコミであることが解る。

ちなみに、そのホームページでは毐国の移住を勧める文言もある

上記の通り趙攻略のための人材確保が急務な状況であることから、引き続き移住は歓迎されると思われ、アニメ第4シリーズ終了後の現在も移住を勧める文言が確認できるのは、上記の通り原作で太原が重要都市になっていることも影響していると考えられる。

毐国は咸陽からおよそ600km、咸陽から徒歩で一か月半かかる距離にある場所とのこと。

何気にメートルを用いた位置関係が公式で明言されているのも珍しい(そもそもメートル表記も当時は存在しないだろ!とツッコむのも野暮だろう)。


関連タグ編集

キングダム


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