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李牧

りぼく

中国の戦国時代末期に活躍した趙国の名将。また同時期をモデルとする漫画『キングダム』の登場人物。本記事では『キングダム』の李牧を中心に取り扱う。
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史実編集

生没:?~前229年

史記」では個人の伝は立てられておらず列伝21「廉頗藺相如列伝」などに登場する。


の北方に当たる代の地に軍長官として駐屯。

春秋戦国時代の将としては珍しく積極的な戦闘行為を好まず、侵略してきた敵軍に対し、徹底した防御・防衛戦を展開した。

しかし戦略や策謀に疎かった訳では無く、当時、既に戦闘集団として猛威を奮っていた騎馬民族匈奴が趙に侵攻した際には、これを討伐。

その功績を認められ、趙の大将軍となり、度々侵攻してきた隣国の軍も撃破し「武安君」に封じられた。

この為、後に始皇帝となる秦王政の中華統一を阻んだ人物として記録されているが、史記の著者である司馬遷は「守戦の名将」と称え記している。


正史だけでなく「戦国策」など民話説話の類にも多く登場する。

その最後については病死、暗殺死など諸説あるが、現在の所、秦に買収された王の側近の郭開の讒言で処刑されたとする謀殺説が有力とされている。ちなみに郭開は廉頗の趙出奔にも絡んでいる。

いずれにせよ、名将である彼を排除してしまった趙はその後滅亡の道を辿ることとなる。


李牧は白起王翦・廉頗に並ぶ戦国四名将と称され、の時代の武廟六十四将にも廉頗や趙奢とともに選ばれている。


キングダム編集

センシティブな作品


戦歴を重ねてきているあなた達でも実際のところ――戦争の本当の恐ろしさは分かっていないということです

無意味な死だけは、絶対に許しません。戦はここまでです

だがこれだけは覚えておけ。趙は絶対に落ちぬ、この戦いで滅びるのは秦であると!


CV:森川智之(テレビアニメ)/浪川大輔(ゲーム)

演:小栗旬(実写版)


趙国における最強の武将の称号『三大天』の一角を成す人物で、また同国の宰相(これは王騎を討ち取った功績で新たに襲名した)。秦と趙の新たな戦いとなった馬陽戦で初めてその姿を現し、以後は趙の司令塔として秦と幾度となく戦っていく事になる。

どこか涼しげで飄々とした立ち振る舞いで、平時はあまり殺気を感じさせない。

自身を小心者する一方、それ故に入念な準備を怠らずに策に嵌めジャイアントキリングをかますことから呂不韋桓騎には強大さとのギャップを指摘されている他、自身の平和維持の手段があくまで社会構造そのものを変革させるというものではないため、嬴政や桓騎から非難されている。

また、敵味方問わず無意味な死を嫌っており、非戦闘員を殺めない、味方の損害を増やすと分かっている事は行わない、といった独自の考えを持っている。自身も歴戦の武将であると同時に、知略に優れた策略家という顔を持つ。

中華統一を目指す主人公李信)達にとって、国外における最大の敵として描かれている。


回想より朱海平原の戦いから19年前の時点で親族も戦友も戦争で失ったことが語られているが、肥下の戦いでは残忍な侵略者である桓騎に対し、宰相として、守るべき国や国民のために奮闘する様子が前面に描かれている。


来歴(李牧軍も参照)編集

紀元前255年頃、戦に溺れていたとされる李牧(ちなみに当時は一人称は「俺」であり、今のような丁寧口調でもなかった)は、ある戦で親も兄弟も当時の仲間も全て失い、敗走している山中で倒れていた所を龐煖に助けられた。

どうやら龐煖にとっては李牧は「自分の(求道者としての)道を答えに導く人物」であったためらしい。

詳しい時期は不明だが、カイネが居ない点や直接邯鄲から派遣されている点を踏まえると、紀彗が経験した離眼の悲劇の仲裁に入ったのはこの時期と推測される。

その後、弟子を持てるほど軍略が深くなったようだが、李牧の弟子がある田舎の軍略大会で少年の頃の慶舎に出会った。

それから雁門の城主となり、カイネに出会い、雁門で匈奴と戦いながら舜水樹馬南慈などの将軍を多数抱える趙三大天の一人となった模様。

趙北部の情報について秦軍は把握できていない状態だった(少なくとも下記の馬陽以前から李牧が情報封鎖を断続的に行なっていた訳ではないと思われる)ために、趙北部から趙三大天が生まれていたことも当然気付けなかった。


宜安防衛戦馬風慈の発言から、紀元前244年に雁門城の城主を辞めたことが明らかとなったが、この同年は趙北部軍13万を率いて匈奴軍20万を破り(この時点で趙北部は平和になったと袁環は語った)、さらにその足で馬陽戦の最中に4万の軍を率いて乱入し王騎を討ち取り、王騎を討った功績から趙の宰相となった時期でもある(匈奴を討ったのはあくまで情報操作の一環である上、悼襄王としては匈奴を李牧が追い払うのは普通と考えるため、功績が認められたのは王騎の討伐である)。

詳細は不明だが、李牧は趙北部の平和に留まらず趙国全体の平和のために匈奴や王騎を討ち、自身のネームバリューを国内外に広げつつ軍事・政治面で強く影響を与え、中華の平和を目指す意図があった模様。


紀元前243年、燕の武遂と方城を落とす。また、呂不韋の策で秦を訪れ、秦趙同盟を締結する。

その後、龐煖を総大将に燕へ侵攻し、劇辛を討ち取った。

王騎と劇辛を討った実力や、春申君が警戒していた通り秦の中華統一が現実味を帯びた危機感から諸外国に合従軍の話を持ち掛け、紀元前241年に合従軍を結成し秦に侵攻した。

しかし斉の裏切りや函谷関と蕞の侵攻に失敗したため、(姚賈の口添えも大きかったが)郭開が李牧を失脚させ、一時的に左遷された。


紀元前237年、斉の王建王とともに秦を訪れ、嬴政に対し中華統一を諦めるように上奏した

これに対し納得がいかないと昌平君は反論するが、今いる秦将全てがまとめてかかってきてもこの李牧の敵ではない!!と啖呵を切り、趙国西部の防衛を強固にしたことで、秦軍は西部への侵攻を諦め南部の侵攻へ踏み切らせる結果となった。

紀元前236年、鄴の戦いでは李牧は敗北するものの、その勝因はあくまで秦軍にとって幸運がいくつも重なった「奇跡」の結果でしかなかった

敗戦により王印の騎士団に邯鄲へ連行され地下牢に投獄されたが、悼襄王の崩御から、太子により解放される。

しかし末子・遷が次期国王に指名されたことで李牧もまた粛清対象となり、邯鄲脱出後に司馬尚のいる青歌に向かった。

紀元前234年の影丘の戦いで扈輒が敗れ、廉頗の趙への帰還を郭開が拒絶したことで、消去法で青歌から邯鄲に再び返り咲いた。

紀元前233年、桓騎が宜安・平陽・武城を奪取したが、李牧は肥下に迫る桓騎を討ち勝利し、その功績により武安君となった。

紀元前232年、番吾にて鄴侵攻と同じメンバーが趙に侵攻してきたが、協力を得た青歌軍によって王翦軍を撃破したことによって勝利した。


余談編集

キングダム連載前に描かれた短編『李牧』の主人公であり、ある意味キングダム最古参のキャラクターと言える存在である。この短編読みきりの評価が高かったことがキングダム連載のきっかけになったとのこと。


作者の思い入れの強い人物である為か、史実よりもかなり早い段階で登場し、信達の前に立ち塞がる。(登場からかなりの話数を重ねているが史実で信達と対峙するのは2021年12月現在の時点でもまだ先になる)



しかし、作者の思い入れが強く文献より早く登場した影響で悲惨な扱いになっている人物でもある。

史実では「趙滅亡前に登場し戦績は良いが政略で亡くなった悲しい人物」という記述が多いが

作中では「戦績も政略も悪いのに自他共に評価が高い人物」という形で書かれている。

その為、読者からの評判は芳しくなく、読者アンケートの順位もそこまで高くない。

SNSでもネタにされるレベルである。


詳しくは作品を読むと分かるが、李牧については下記のような行動で描写される事が多い為、「李牧を悪い意味でネタとして扱う」「キングダムは史実を悪い方向で脚色しただけのファンタジー作品」と言った形で受け止める事ができると、李牧のキャラクター性を楽しめるだろう。

逆に「史実で描写されてない部分をどのように楽しく漫画に落とし込むか考察するのが楽しい」「史実をどのように読者受けするファンタジーにするか楽しむ」といった史実に対して忠実、あるいは史実に対して真剣な態度の読者にはウケが悪い。


「圧倒的多数の兵略で囲みながらも敵対勢力に脱出・突破される」

「龐煖に頼らないと敵対勢力に本陣まで詰められる状況を突破出来ない」

「全体的な状況を見た上での王の指示に反抗的な態度をとる」

「趙に仕える態度を取りながら部下が趙王政にクーデター等反抗的な態度を取った事を咎めない」

→毎度秦を上回る兵力と敵国に悟られずに包囲できる戦術と趙将軍ですら情報封鎖して匈奴殲滅できるレベルの知略があるなら、「なんで登場したあたりのタイミングで他国を滅ぼして統一しなかった」という話になる(詳しくは過去の読者投票の結果等を調べると分かる)。

史実通りの活躍・挽回の機会を期待されるキャラクターである。


実写版では3作目「運命の炎」公開日まで演者非公開のシークレット扱いで登場する。



孫・李左車編集

李牧は誅殺されたが一族は連座しなかったようであり、子や孫もいた。その中で特に知られるのが漢の高祖・劉邦に仕えた韓信の参謀「広武君」李左車であろう。

秦帝国が三代で楚の項羽に滅ぼされ、その後の論功行賞で趙が復活。李左車も祖父同様、趙に仕え趙王歇や宰相の「成安君」陳余を支えた。しかし前204年に趙と漢が戦った「井陘(セイケイ)の戦い」で陳余は李左車の進言を無視し、背水の陣に引っ掛かり韓信と張耳たちが率いる圧倒的少数の軍勢に敗れて戦死。歇も処刑され趙は再び滅亡。身を隠した李左車も懸賞金を掛けられ囚われるが卓越した兵法家ぶりを知っていた韓信に師として迎えられた。その後の動向は不明である。


韓信とのやりとりで「敗軍の将、兵を語らず」「千慮の一失」の語源となった名言を残し日本でも有名…と言うか前述の『キングダム』で李牧の知名度が上がる前は司馬遼太郎横山光輝の『項羽と劉邦』などの影響もあり孫の方が長らく知名度が高かった。


関連タグ編集

 キングダム 李牧軍

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