史実
趙の名将であった廉頗は、悼襄王の不当な人事により解任されたことを怨み、後任の将軍である楽乗を破って趙を出奔した。だがこのため、趙に名将がいなくなって秦の標的とされたため、悼襄王は廉頗を呼び戻すため使者を送った。悼襄王の使者の前で元気な姿を見せて帰参を承知した廉頗であったが、廉頗が趙にいた頃から対立していた郭開は、この使者を買収して悼襄王に対して「三度遺失(トイレに立つ、或いは間に合わないの意)」と虚偽の報告をさせた。このため、悼襄王は廉頗が使い物にならないと判断して帰参を許さなかった。
それからしばらくして、秦王・嬴政は天下統一のため、趙に対して王翦を将とした軍を送った。趙の幽繆王は当時の趙の名将であった李牧と司馬尚に防衛させた。秦軍は李牧のために何度も敗れており、今回も李牧の善戦のために苦しんだ。秦は李牧と司馬尚を排除するため、郭開に大金を送って幽繆王との離間を依頼した。郭開は王に「李牧らは謀反を企んでいる」と讒言する。王も実は先代から功名の高い李牧を恐れていたため、この讒言を真に受けて李牧らを更迭しようとした。しかし、李牧は王命に応じず、司馬尚は身の危険を感じて逃亡して、解任された。王は李牧を捕らえて、これを処刑して葬り去った。
翌年、趙は秦に邯鄲を攻められて滅亡し、幽繆王は捕らえられた。郭開の末路は史書に記載がなく不明である。郭開という奸臣によって廉頗と李牧という名将が葬り去られた結果、趙は滅亡の道を歩んだといえる。
このような顛末のため、郭開は国を滅ぼす原因を作った奸臣の代表格として現在の中国でも憎まれている。
キングダム
CV:ふくまつ進紗
裏で呂不韋と繋がっており、王弟謀反編では成蟜を出陣させるため屯留に向けての趙軍侵攻を指示した。
鄴編では李牧を朱海平原敗戦の罪で地下牢に投獄し、公開処刑を言い渡す他、李牧の助言を悉く握り潰した。
悼襄王の急死で自身の立場が危うくなったが、遷が次期国王に指名されたことで再び実権を得る。
遷の立場を盤石にすべく、すぐに太子嘉や李牧ら嘉一派の粛清に動き出す。
一方で握り潰していた李牧の助言を使い、対秦防衛網を構築する。
その後宰相に就任するが、扈輒の戦死の報せを受けて愕然。
その後、廉頗から帰国の打診を受けるも拒否し、やむを得ず李牧を頼る。
余談
史実同様に私欲のために動いてはいるものの、悼襄王とは互いに利用しつつもそれを隠さずに笑い合うなど味のある悪役ぶりを見せており、また嫌っている李牧の助言を登用して防衛に成功するという有能さを時折見せていることから、史実とは真逆に好感を持つ読者もいる。
李牧陣営は最終的には趙国軍事上層に返り咲いたが、そうなる前から郭開陣営は秦国六大将軍の侵攻を約1年防いでおり(領土を侵食されながらの撤退戦、などの苦戦描写も特になく)、『郭開達はどうせすぐ秦国の攻撃に音を上げて李牧に泣きつく』という予想はあまり的中していない。