史実における龐煖
趙の学者のち将軍。学者としては武霊王の時代から兵家・縦横家として高名であった。
武霊王から恵文王・孝成王を経て悼襄王の時代、名将廉頗が出奔したこともあり李牧と共に悼襄王に将軍として起用された。燕との戦いではかつての知己であり自身を侮って攻めてきた名将劇辛の軍を打ち破り、劇辛を捕えて処刑した。後に筆頭将軍として合従軍を指揮した。のち悼襄王の後を継いだ幽繆王には用いられなかった。その後の動向は不明。
フィクションにおける龐煖
キングダム(漫画、アニメ版)
CV:高塚正也
自らを「武神」と称する大柄な男で、普段は人里離れた山奥で腕を磨き続けている。
長いざんばら髪と、過去王騎に敗れたときに付けられた顔の傷が特徴の求道者である。
武器は、先端が極端に反った形をした薙刀の様な大矛で戦う。
尋常ならざる修行の果てに長時間神を宿す力を手に入れており、その武力は人の域を超えていると言われているが……?
来歴
気功術で人々を治療していた夫婦の間に産まれた子だったが、赤ん坊の時に現在の龐煖のような姿の大男に両親が襲われて殺され、自身はその大男に攫われ育てられたらしい(公式ガイドブック『戦国七雄人物録』では、不思議な治癒能力は両親から受け継いだと明言されている)。
紀元前255年、山中である戦に敗走して瀕死だった李牧と出くわした際に大矛で殺そうとするが、気によって彼を「"求道者"である自身に答えを示す"導く者"」だと悟り、追手を全滅させて彼を助けた。
紀元前253年、馬陽を攻めていた秦軍本陣を襲撃し、六大将軍の一人摎を一騎打ちの末に殺害するが、直後に激情に駆られた王騎に顔を斬られ敗れる。なお、顔を斬られた直後、秦軍の矢の雨に晒されているが、身体に無数の矢が刺さった状態でありながら生き延びていた。
「尋常ならざる修行の果てに神を宿す力を手に入れ人の力を超えたにもかかわらず、ただの人のはずの王騎に敗れた」、この理由と答えを求め龐煖は再び山中に戻り身体を癒しつつ修行を続けた。
紀元前244年(始皇3年)、上記の王騎との因縁から、王騎を討つために李牧の誘いに乗って趙三大天および趙軍総大将となり、因縁の馬陽へ出陣する。
夜襲を仕掛け、飛信隊を半壊させ信と羌瘣の2人を相手取りながらも圧倒的な実力で追い詰めるが、決着には至らなかった。
馬陽決戦日での王騎との一騎討ちで、自身の矛を砕かれてしまうが、魏加の横槍で出来た一瞬の隙を突いて砕かれた矛で王騎を刺して致命傷を負わせた。
しかし、致命傷を負ってもなお自身を圧倒する王騎の力を目の当たりにし、王騎を討っても納得がいかないまま、戦場を立ち去った。
その後、深山で修行を積んでも王騎を超えた感触を得られず迷っていたが、李牧の誘いに乗り紀元前242年(始皇5年)、趙燕戦争の総大将として燕軍大将軍劇辛を一騎打ちで討ち取った。
同年の合従軍編では李牧軍に同行し、追撃してきた麃公を一騎討ちの末に片腕を折られるも討ち取ったが、蕞攻防戦では終盤、信との一騎討ちの末に重傷を負い、信との決着には至らず、信に名を覚えておくと告げて撤退した。
紀元前238年(始皇11年)、朱海平原戦九日目に信が岳嬰を討った時に王騎の気配を感じ取り、十四日目の夜に秦軍左翼の蒙恬陣営に突如姿を現し、胡漸隊を壊滅させた後、姿を消した。
最終局面で李牧本陣目前に迫った飛信隊の前に立ちはだかり、羌瘣を退けると、因縁の信との一騎討ちを繰り広げるが、最後は信に討ち取られ死亡する。
求道の答え
王騎「命の火と共に消えた彼ら(王騎の戦友)の思いが、全てこの双肩に重く宿っているのですよ」
麃公「龐煖。やはり貴様は全く何も感じておらぬのだのォ。わき上がってくる力を、つむがれていく炎を!」
信「ああ。大丈夫だ。まだ戦(や)れる…。戦れるぜ。漂。ああ。ああ、分かってる。お前の周りにも匂いがしてる。酒臭ェのは麃公将軍だろ。へへ。畑の匂いは尾到あたりか…。へへ。他にも色々。分かってる…。何かのでけェ花みてェな匂いを広げてんのが王騎将軍…。分かってる。みんなが…力を貸してくれてるのはちゃんと分かってるぜ、漂。でも龐煖には、それがねェ。それがねェから、龐煖の刃は…痛ェだけで、重くねェんだ!」
龐煖は人間一人が到達できる「武の極み」には達していたが、それにもかかわらず王騎に敗北したと李牧は推測する。
この矛盾の真相は「関わる人間達の思いを紡いで束にして戦う力」、少年漫画的にありふれた表現をすれば仲間の思いも背負って戦う力であり、求道者が目指す人の力を引き上げようとするために、人の上に立つ存在になること(作品のジャンルは異なるがこれやあれなど)を実行するためどんなに努力して武を極めたとしても王騎・麃公・信には勝てないということは即ち、誰がどう足掻こうが人が人を超える存在にはなり得ない、つまり人は人でしかないというものだった。
道を極めたと自負する龐煖に対し何度も立ち上がり続ける信の姿に、龐煖はついに自分の道に疑問を覚える。
道などそもそもなかったのだと。
しかし龐煖はその疑念を否定し、お互いに大矛を相対するも、龐煖の疑念に応ずるかの如く龐煖の刃が砕けた。
尚も疑念を認められず砕けた矛で信を突き刺そうとするも躱され、信が大矛を振りかぶり、龐煖は柄で受け止めようとするも、受け止めきれずに柄を真っ二つに折られ切り裂かれた。
そして龐煖は自分の出生が上記の通り、気功術で人々を治療していた夫婦の間に産まれた子、つまり自らも人と人の関係によって生まれた人間であったことを思い出し、赤ん坊の時に現在の龐煖のような姿の大男に両親が襲われて殺されてから育てられた(悪く言えば求道者になるように洗脳教育を受けていた)ことを悟る。
龐煖の人生とは即ち他の誰かの思いによって生み出された道でしかなかったものの、それに気付かないまま、あるいはそれに気付く機会を「求道者」という思想が邪魔をしていた上、それに気付かせてくれる存在が自分によって討たれたために、自己矛盾に囚われ続けていたと言ったところだろうか。
李牧が作中で回答を提示したものの、それはカイネなどの趙兵に対して(メタ的には読者に向けて)の解説であり、龐煖自身には届いていない。
また、戦場で戦い続け思いを紡いできた王騎、麃公、信にとっては当たり前の考え方であるから、彼らは元からずっと答えを提示し続けていたにもかかわらず、龐煖は死ぬ間際まで気づくことができなかったのである。
読者からの評価
このように信にとって李牧に次ぐ長年の仇敵として立ちはだかった龐煖だが、残念ながら読者からの評価はかなり厳しい。
元から王騎を死に追いやった相手(実際は李牧だが)というだけでも読者からは憎まれていたが、その王騎戦もほぼ押されっぱなしだったことも実力を疑問視されている。
9年前は一応摎との連戦だった上に王騎が摎以上に不意打ちのような武力を発揮したためまだ擁護の余地はあるが、現代の戦いでは実質的に魏加が決定打となっているのが大きい。
ただし、これに関しては作中でも龐煖自身が痛感しており、「王騎と二度と戦えない(=払拭できない)」というのはある意味最大の罰であったといえる。
その中でも、朱海平原の戦いで夜襲を仕掛けた際の蒙恬のじいである胡漸が最期の力で一矢報いた際に、相手を称えるでもなく「ビキッ」と怒りを露にするところなどは「単純にダサい」と散々な言われようであった。
ネット上では李牧に使役される様から「カプセル怪獣」「ポケモン」といったあだ名で呼ばれていたことすらある。
なお、基本的に某まとめサイトでは我武神から「ワレブ」と呼ばれる。
もちろん、信との最後の戦いは師の仇を討った龐煖を超えるという重要な戦いであり、この点に関しては熱いバトルだったと評価は高い。
キングダム(実写版)
演:吉川晃司
実写版で龐煖を演じた吉川氏は、事務所のスタッフの中に『キングダム』ファンがおり、以前そのスタッフから「演じるなら龐煖しかありませんよ。」と力説されたこともあり、オファーを快諾したという。
また、役作りのために1ヶ月間山での生活を行い、巨大な矛を扱えるように同じ重量、同じ丈のものを振り回して鍛えたとのこと。
実写版では原作には無い蹴り等の足技も使用しているが、これは吉川氏のアイデア。
達人伝
縦横家の龐煖と将軍の龐煖が同姓同名の別人になっており、後者は李牧と同世代の描写で描かれている。
初出は邯鄲防衛戦。問題児として有名だったが李牧と共に李談率いる決死隊に加わり、信陵君や春申君の援軍もあり秦軍を撃退した。しかし、当時から才能の片鱗を見せていた李牧と違い春申君の配下の項燕と共に荒削りぶりが目立っていた。のち楚の荀子の元に遊学して学問や軍略を身に付けたが、荀子からは古の縦横家と同じ名前だと言われた。その後は趙の将軍として活躍し信陵君亡き後の函谷関攻めでは合従軍の総大将になる。荘丹ら「丹の三侠」はこの戦いで戦死したが、のち自身も悼襄王を継いだ幽繆王に用いられず歴史の表舞台から消える。