時は紀元前、春秋戦国時代の秦国! 名もなき少年・信は、若き王・政と出会い武功を挙げて、ついに百人隊の将にまでなった! そんな中、突然隣国の趙が攻め入り、未曽有の危機が訪れる! 総大将・王騎は如何なる戦いを仕掛けるのか! そして信は、如何なる成長を遂げるのか!(アニメ第1シリーズOP前のナレーションより)
概要
漫画『キングダム』作中において趙軍との戦いを初めて描いた話。
アニメ第1シリーズ第26話から第38話までに相当し、上記のナレーションが同話から変更されている。
ただし、Blu-ray BOXでは20話以降を「王騎落命篇」と銘打っている。
実写映画版は2本あり、2023年公開の『キングダム3 運命の炎』ではこのエピソードにおける到着及び開戦から主に開戦初日が描かれ、2024年公開の『キングダム4 大将軍の帰還』で王騎と龐煖の対峙が描かれる。
百人将となった信が王騎の下で戦う最初で最後の戦いであり、信が将軍になるまでの因縁の相手・龐煖や、趙滅亡までに秦に一泡も二泡も吹かせた李牧が初登場する話でもある。
また、ある六大将軍の因縁も描かれる。
史実にはない戦いだが、王騎のモデルである王齮はこの年に亡くなっており、史実及び本作では蒙驁による韓侵攻が行われていたが、仮にこの戦いの中で王騎も描いた場合、「蒙驁と王騎というベテラン大将軍が2人も居たのに(史実で最初に滅亡する小国の)韓に出し抜かれ王騎が討たれた」ことになる。
そうなると後の展開が描きづらくなるのと、蒙驁の扱いに困ることが予想される。
まず、蒙驁の死期は史実で明言されており、少なくとも合従軍までは生き残っているため、韓に対しては特に安易な敗戦は描けない。
加えて本作の蒙驁の副将として設定されている王翦と桓騎も出し抜く必要があるが、前者は有名な知将かつ息子も後に最強格の武将になることから、父親である彼も最初から強い武将で描かなければ設定として違和感が強く、後者も史実で敗戦が明言されているため、その展開までに弱い武将として魅力的に描くのは無理がある。
そもそも大将軍が2人、さらに大将軍級の副官が3人も居て出し抜かれるなら、本戦において重要な問いである天下の大将軍とは?に対して、軽薄な意味合いにしかならなかっただろう。
このため韓侵攻と並行した別の話で王騎の生き様を描くことで、史実を再現しつつ天下の大将軍に対して重い意味合いを込めることができたと言えるかもしれない。
本作では描かれていないが、史実ではこの年に秦国で大飢饉が起きており、蒙驁による韓国侵攻や、本作の趙軍による秦国侵攻とは別の意味でも、人材不足に悩まされていた。
また、キングダム公式ガイドブック『英傑列記』では同年の馬陽戦の後に「趙、燕を攻め勝利」と記載されている。
この戦いは史実では李牧が主導しているが、本作では李牧が主導したか分からない上、その詳細もついには描かれなかったことから、史実における李牧の活躍は趙攻略編まで先の話になる。
以下はネタバレになりますので注意して閲覧してください。
王騎の復帰
紀元前244年(始皇3年)2月、丞相・呂不韋の号令の下に蒙驁率いる20万を超える大軍勢が韓を目指して出陣、僅か1か月で11に及ぶ城を陥落した。
韓の侵攻に際し隣国である魏や趙が動く懸念を河了貂や昌平君は抱いたが、魏は前年の蛇甘平原の戦いのこともあり前線に麃公が留まっているのに加え、昌平君の指示で張唐も配置したため、魏が攻めても対処できる状態にしていた。
また、趙については三大天である藺相如・廉頗・趙奢は既に居らず(廉頗以外は他界し、廉頗は魏に亡命していた)、軍事の転換期ではあるが目立った人物が居ないことから、秦の攻撃には動けないと踏んでいた。
ところが、秦趙の国境に位置する馬央城に、龐煖を総大将にした趙軍10万が攻めてきた。
長平の戦いの憎悪で動く趙の軍勢の虐殺を阻止すべく嬴政は呂不韋に早急な対応を求めたが、趙軍侵攻が秦国首都・咸陽に届いた翌日に馬央城は陥落し、周囲の村の住民は虐殺されていた。
その知らせのあった午後、嬴政は緊急徴兵を発令し、秦国で戦える10万の国民を強制的に出兵させ、馬陽に向かわせた。
また、同じ頃、王騎の下で修業に励んでいた信と渕も4か月に及んだ修行を一時中断し、馬陽防衛に参加した。
しかし、趙の兵士は精鋭揃いなのに対し、秦の兵士は殆どが農作業に従事していた一般民であることから、この防衛戦に勝つには総大将の力量が必要だった。
このため昌平君は、たまたま韓に出兵していなかった呂氏四柱の蒙武を差し置いて、攻めも守りも兼ね備えた王騎を馬陽防衛戦の総大将に任命した。
到着と開戦
同年3月、王騎は咸陽から出陣し、先行していた信率いる百人隊などと合流。
半月前後で馬陽に到着し、それまで守城に徹していた馬陽城の戦いは攻勢に移った。
布陣後、中央軍の蒙武軍と王騎軍傘下の将軍・隆国軍の攻撃により趙軍に想定以上の被害を与えるが、本陣を王騎軍副将・騰に任せ左軍に向かった王騎は壁に対し、左軍が主攻であり、本陣を狙うためには駒を減らす必要があると語った。
間もなく王騎軍の干央と壁が率いる左軍の攻撃が始まり、信の元にも王騎が現れ、信たち百人隊に飛信隊という部隊名を名付け、秦軍と趙軍が激突するどさくさに紛れて趙将軍・馮忌を討つように命じた。
奇襲により飛信隊は馮忌のいる本陣に辿り着いたが、馮忌は飛信隊を背にして距離を取ろうとする。
だが、馮忌の罠によって3割にまで数を減らしながらも前進した干央・壁ら左軍が到着。
さらに後方の茂みには秦軍の旗が掲げられ逃げ場を失った馮忌は干央を倒そうとするも、干央との会話によって隙が生じ、信の不意打ちによって討死した。
残った趙軍も干央軍が蹴散らしたことで趙左軍の戦意は喪失し、趙の中央軍と右軍も初日を終えた。
2日目と3日目は中央軍が戦況の中心となり、戦闘経験の浅い歩兵を初日に練兵したことで実力をつけた蒙武軍の攻勢により趙兵を削っていった。
4日目は、趙軍は秦軍が動かないものと見ていたが、王騎は全軍突撃を蒙武に指示したことで趙軍は作戦で読み負け、山に向けて本陣を撤退するしかなかった。
趙軍が山に逃げることも蒙武がそれを追撃することも読んでいた王騎は蒙武に対し、本陣を敷いていた山が見える範囲までの追撃という制限を付けた。
しかし王騎は、趙軍のここまでの流れをきな臭く感じていた。
趙軍の撤退までは恐らく本気で戦っているが、この展開も含め別の軍師の存在を疑っていたのだ。
とはいえこの戦では未だに姿を見せない総大将の龐煖を捜索しなければならなかったため、王騎も本陣を動かすことにした。
丁度趙軍の本陣が撤退した頃、この戦を馬陽城で観戦していた蒙毅と河了貂の前にある男女のカップルが現れた。
大将軍の帰還
本陣を山に移した秦軍の夜営が始まったが、趙国総大将・龐煖が神を身体におとす巫舞を持つ羌瘣を狙って単独で現れた。
飛信隊最強タッグで龐煖を挟撃しようとするも、信が一瞬で倒され、羌瘣の巫舞も通用しなかった。
干央が事態を把握し向かうも、趙将軍・万極の隊が龐煖の援護のため追ってきた。
干央軍と万極軍が入り乱れる大混戦の中、飛信隊は龐煖の周囲3方向から槍を投げ続け、周囲に意識が向かっている隙に信が切りかかったものの、龐煖は殆ど切れておらず作戦は失敗。
龐煖は信を斬ろうとするも、尾平らが盾で攻撃を防ぎ続けたため吹き飛ばされただけで済み、信は飛信隊の撤退を宣言し、戦いの中心部から脱出した。
この間に干央は万極によって重傷を負い倒れ、戦いは万極軍が一方的に有利となった。
負傷した龐煖は姿を消したものの、万極は馮忌を討ったことで名前を把握していた飛信隊を追撃。
飛信隊は散り散りになり、信を背負っていた尾平の弟・尾到が矢を受けたことで死亡したが、万極軍の追撃を逃れた36人が翌朝に集結した。
その後、趙将軍・渉孟の軍と出くわすも、飛信隊の後方から秦国総大将・王騎の軍が現れ、王騎が渉孟を瞬殺。
同じ頃、趙軍の本陣で趙軍師・趙荘及び彼の軍と合流した龐煖は蒙武軍と激突。
龐煖と蒙武は間もなく相対するも、趙荘の策により龐煖は撤退。
蒙武軍は龐煖を追うも、崖に挟まれた狭路で上から巨石を落とされ軍の半数を失った。
だが、隆国の制止を顧みず蒙武はさらに騎馬隊を進めた。
王騎は旗によって山の中の秦軍と趙軍の存在を把握していたが、隆国が旗を上げていないことで危機感を募らせ、蒙武軍と合流すべく趙軍の本陣に向かった。
だが本陣は趙軍が居なかったため、王騎軍は情報収集を行い、趙荘の策は本来なら王騎軍を少しずつ伏兵などの罠によって削り、痩せ細ったところを回り込んだ本軍で一網打尽にするものと考えた。
このまま王騎が動いた場合、情報を常に出し続ける秦の本陣の山が見えなくなり情報収集が不可能になるが、敵の罠に嵌った蒙武が下手をすれば命を落とすことになるため、王騎はやむなく軍を進め蒙武軍と合流。
これによりついに王騎と龐煖が同じ戦場に立ったのだった。
李牧の罠
王騎の策により戦況は有利だったが、王騎軍の登場で救われた形になり戦を静観していた蒙武軍とともに戦っていた隆国には、王騎の戦い方が強引に急いでいるように見えた。
そして趙荘軍にとっても、秦軍の歩兵の本陣突入が早すぎることで、急いでいることは理解できた。
王騎は、この地に着いた時にどこからか伏兵が来ると察したのだ。
本陣の山から見える範囲までの間に伏兵の存在は確認されておらず、本陣からの情報が見えなくなった今の時点の戦場で他に動ける趙軍は居ないはずだが、それでも自分の見えていない援軍が来る可能性を想定した時、むしろ山に誘い込むことこそが趙軍の狙いならば、最初に感じた違和感にも説明がつく。
とはいえ相手は龐煖と三大天ですらない将軍クラスの軍師なので、山中に伏兵が居た所で到着する前に彼らを倒せば勝てると考えた。
王騎は趙荘軍相手に圧倒的な力を見せるが、龐煖が現れ総大将同士の一騎打ちとなった。
龐煖がやや優勢だったものの、龐煖に切られ倒れた摎を思い出したことで本気を出し、龐煖を追い詰める。
龐煖が次の一撃で切り殺せる状況だったその時に地鳴りが起き、趙三大天の1人・李牧が現れたのだった。
この戦、そもそも全て李牧が考えた作戦で動いており、趙荘などの軍師と将軍はそれに従っただけに過ぎない。
ここに訪れる前に李牧軍は10万の匈奴を倒し、その足で決戦の地までやって来ていた。
だが、馬陽で戦うほぼ全ての兵士(趙軍さえ趙荘など一部しか知らない)は勿論だが、咸陽すら山の民の王・楊端和が来秦したことで初めて情報を得たほどの徹底した情報封鎖が行われていたのだ。
そうまでする李牧の目的は、六大将軍最後の1人・王騎の討伐であった。
この頃、趙では王騎の他に白起]や王齕などの六大将軍に負け続けたのに加え、三大天最後の1人・廉頗も魏に亡命したため、国を代表する大将軍が居なかった。
乱世では弱い国に人は集まらずやがて滅びる運命にあることから、趙国の象徴たる三大天に就任した李牧にとって趙の武威を示す必要があった。
また、作中で明言はないが廉頗が居なくなったことで趙の武威が失墜したならば、秦の最後の六大将軍・王騎を失った場合にも秦の武威も大きく失墜するのは推測できるだろう。
以上を踏まえると、李牧が王騎を討つことで、秦の武威は大きく失墜するとともに趙が列国の脅威になり得る武威を示し、国を守ることができるのである。
王騎落命
李牧軍が現れたことで秦軍は挟撃となり詰んでいたが、王騎は笑い、敵を倒しながら逃げる指示を与えた。
だが、龐煖が簡単に王騎を逃がす訳もなく、秦軍と趙軍が入り乱れる中、趙兵も龐煖も王騎を狙った。
次第に龐煖の刃が王騎を傷つけていく中、手強い策士と武人を同時に相手するのは難しくなり、王騎はついに打てる策はないと悟った。
だが王騎は諦めておらず、力推しで突破できるよう鼓舞したが、李牧は中華十弓の1人・魏加率いる軍を前線に出し、魏加の放った弓が王騎の肺に刺さる。
龐煖の矛の切っ先を折り、もう一太刀を浴びせれば斬れる所まで来ていた王騎の矛は当たらず、龐煖が切っ先の折れた矛を王騎の腹部に貫通させた。
それを間近に見ていた王騎軍が涙し、矢を止められなかった信も涙を流しながら魏加を斬り、周りの秦兵も武器を落とした。
それでも、王騎の心は折れなかった。
ここはまだ死地ではありません
そう言って王騎は龐煖に矛をゆっくり振り下ろした。
それは龐煖の素手で止められるものの、王騎はさらに力を入れて龐煖の首に刃を入れつつ語る。
将軍とは、百将や千人将らと同じく役職・階級の名称にすぎません
しかし、そこにたどりつける人間はほんの一握り
数多の死線を越え、数多の功を挙げた者だけが達せる場所です
結果、将軍が手にするのは千人の人間の命を束ね戦う責任と、絶大な栄誉
故にその存在は重く
故にまばゆい程に光り輝く
死人同然なのに力で負け、刃が次第に食い込んでいく龐煖は「貴様は一体何者だ」と聞いた。
王騎は決まっているでしょうと笑いながら
天下の大将軍ですよ
と応えた。
恐怖を覚えた龐煖は王騎に向けて矛で突こうとするも騰に止められ、王騎軍の介入により龐煖と王騎は距離を置くこととなった。
騰隊は撹乱のため趙本陣に突撃し、今にも騎馬の上で倒れそうな王騎を信がその騎馬に乗り王騎を支え、道中の趙兵を王騎軍が盾になりながら防ぎ、蒙武軍を目指して全速力で駆けた。
今にも力尽きそうな王騎が騎馬の眼前に襲い来る趙兵を薙ぎ払い、信に将軍の見る景色を教えた。
その景色に王騎は、隆国や蒙武が作った活路を見出し、李牧の本陣で暴れまわった騰も脱出した。
そして李牧は、王騎の死を目的としていたため、追撃をせず終戦となった。
夕刻、絶えそうな王騎は、王騎軍の後を騰に託し、蒙武には問題点を、信には自身の矛を託すとともに将軍の素質があると語り、騎乗したまま摎も含む先に逝った戦友のもとへ旅立った。
顛末
王騎死亡の一報は、他の場所で戦っていた秦軍と趙軍にも一斉に伝わり、趙軍が撤退したことで終戦。
馬陽の防衛が目的なため趙軍が撤退したことで表面上は勝利しているが、秦の兵士で喜ぶ者は誰1人として居なかったどころか、王騎の死を目の当たりにした王騎軍などは嗚咽していた。
また、この一報が中華全土に広まったことで秦の国民は、他国が狙ってくるかもしれない恐怖でおののいた。
咸陽でも呂不韋は険しい表情を見せ、昌平君は額に汗をかく程度には動揺し、王騎と同期の昌文君は軍議の最中に立席するほど激昂した。
立席し外へ向かった昌文君の前には嬴政が肩を落としており、王騎が彼に話したのは昭王の遺言で、全中華の王たる姿を教授する内容だった。
奪い取った地にある民は奴隷に非ず
虐げることなく自国の民として同様に愛を注ぐこと
この内容を嬴政に伝えたのは、昭王の遺志を継ぐ素質のある秦王であると王騎が認めたためで、共に中華を目指しましょうとも言われていた。
その矢先の訃報のため、話した嬴政も、それを聞いた昌文君も、共に涙を流した。
論功行賞は今回も信にはないが、信の功績は飛信隊隊長・信は王騎軍にて趙将軍・馮忌を自ら討ち取り、王騎を殺した一助となる弓を放った中華十弓の1人・魏加も討ち取ったといったところ(龐煖の夜襲に際した奮戦や王騎軍が逃げ切るまでの迎撃などはノーカウント)で、三百人将に昇格し、この戦いで生き残った36人から300人になるまで増員された他、王騎から飛信隊の名と矛を受け取った。
実写映画
上記の通り、2023年に『運命の炎』、2024年に『大将軍の帰還』が公開された。
内容は概ね原作を再現されている、というより端的に馬陽の話を知りたいなら実写映画の方が観やすいとすら言える。
主な変更点(殆どが『大将軍の帰還』である)
- 嬴政の過去である紫夏の話を、昭王の遺言を伝えるシーンに乗じて王騎に説明する構成となった。この改変により実写映画の信は嬴政の過去を把握していることになる(原作では追い出されているが、実写映画では隠れて話を聞いている)が、これが今後の展開に影響するかは不明。
- 渉孟のシーンは全カットされ、そもそも渉孟の出番は一切無い。キャストにも見られない。このため王騎の戦うシーンはその殆どが龐煖との一騎打ち、あるいは乱戦中の趙兵のみとなった。また、飛信隊が王騎軍に合流する流れも簡略化された。
- 蒙武と干央が偽物の龐煖を追うシーンで、原作では「落石の計」により各軍に甚大な被害が出たが、実写映画では落石の計は使われず、代わりに偽物の龐煖を討った直後に大量の趙軍を蒙武・干央軍の後ろから出現させ、窮地に陥れていた。この改変は、そもそも落石の計を再現するのが様々な事情で難しいことや、原作の釣り鐘状の地形が用意できなかった事情もあると考えられる。
- 王騎が戦いを急いでいた描写の大半が実写映画では無くなった(原作では王騎は別の人間の策を感じ取ったために戦いを急いだ)。上記の蒙武・干央軍についても旗の見える場所から遠ざかったことで趙軍の罠に嵌ったものと考え、王騎は本陣を捨てる流れとなった。
- 李牧の策は他の趙将軍に説明するなど原作では細かい解説が見られるが、実写映画ではカットされた。映画の視聴者目線では楊端和と嬴政・昌文君の会話が李牧の策の説明に相当する。
- 王騎を討った際の李牧の反応について。原作では王騎の死体を見るまでは攻撃を緩めない姿勢を見せた後、王騎の死を悟り攻撃を止めているが、実写映画では後者のみを描写している。蒙武により脱出経路を確保する流れは原作同様であるため、王騎の死を悟った時点で戦いを止めていない辺りは違和感があるかもしれない。
- 原作ではいつの間にか王騎の矛を両手で受けているが、実写映画では力尽きそうな王騎から信に投げられ(単に手から滑り落ちただけに見えなくもないが)、信に矛を託した。
- 馬陽から咸陽へ帰還するシーンに実写映画オリジナルの描写が追加され、『大将軍の帰還』のサブタイトルは一番最後に表示される。この理由は余談も参照してもらいたいが、本作の「大将軍の帰還」の意味の1つは秦国に王騎の亡骸が帰ってきたというものである。
余談
『キングダム公式問題集』にて馬陽という地名は史実に存在しないことが明言された。
李牧が王騎らの前に現れるまでに10万の匈奴を倒している理由は明確に示されていないが、作中の山の民の動向を踏まえると、山の民との戦争が近づいたことで匈奴側の士気を上げてしまったため、李牧軍が出張らなければならなくなった可能性がある。
詳しくは李牧の来歴を参照してもらいたいが、李牧が主となっている雁門城は対匈奴の前線基地とも言える場所であり、匈奴の士気が高まった場合は相手が山の民だろうと趙軍だろうと、李牧は警戒せざるを得ないのである。山の民と匈奴による全面戦争に発展するなら、一見すると趙国にとってはわざわざ自分たちが出張るまでもなく匈奴が潰れるために、有利に思えるかも知れない。
また、匈奴が対峙しているのは山の民に限らず、月氏や東胡といった同じ趙国北部の騎馬民族も存在し、趙国北部では派閥争いが行なわれていた背景も踏まえると、余計に趙国は静観し匈奴が潰れるのを待つ方が望ましい。
詳細は不明だが、李牧軍が結果として匈奴を一掃したのは、趙国の判断として匈奴の士気の高まりを危惧したのか、あるいは作中の事実として趙三大天・李牧の誇示として情報封鎖を行ないつつ10万人の匈奴を討ちながら、さらにその足で王騎を討った実力者と大々的にアピールするためと考えることができる。
ちなみに、単に李牧のアピールが目的なだけなら、匈奴絡みの諸問題は趙国や李牧にとってはさして関係が無い。むしろ匈奴以外の騎馬民族や山の民が、李牧に勝てるかを考える必要が生じるためである。このうち実は山の民は秦国と同盟を結んでいたため、後に蕞の戦いや鄴侵攻などで対峙することとなるが、他の趙北部の騎馬民族の動向は明かされていない。
結果論で言えば、李牧とカイネが馬陽城に来ていた時点で馬陽城は陥落していたが、李牧の目的は城の陥落ではないため、戦い自体の影響はなかった。
昭王の遺言に関しては、62巻時点で奪った土地において作中で奴隷的な扱いを行った描写は見られないが、奪う予定の土地の住民を皆殺しにする桓騎軍の描写がある他、兵士の捕虜の扱いについては影丘奪取後に扈輒軍数万を斬首した桓騎に対して嬴政が現地を訪れ詰問したり、武城と平陽の陥落後に飛信隊が評価されたりした描写などが見られる。
しかし、かつての昭王の時代の虐殺や後の展開も踏まえるなら、昭王の遺言であるこの言葉の元々の意味は秦国王が中華統一を目指す上で六大将軍に負わせるべき戦争の責任という見方もある。
というのも、昭王は大量虐殺を起こした白起をこの上なく問題視していた上、他の六大将軍についても戦後の民の扱いについて深く考えなかった(=無責任だった)結果戦後の城内で反乱が起き続け、その平定のための時間や労力を費やされた結果、昭王は生涯を迎えてしまい中華統一を果たせなかったと捉えていた可能性も出てきた。
映画後編のサブタイトルである「大将軍の帰還」だが、原作第701話も同様のサブタイトルである。その内容は、影丘の戦いで敗れ、邯鄲に大将軍が不在となった趙を救うため、楚に亡命した廉頗が趙に戻ろうとした。
ところが廉頗が魏に亡命し山陽攻略編に至った経緯は悼襄王の人間性に問題があったためであり、現趙王・幽繆王も同様に人間性の問題を抱えていた。
このまま廉頗が趙に戻ると王の配下である郭開は元より他の家臣も皆殺しとなる恐れがあった。
このため郭開らは廉頗を趙に戻さないように画策した一方、かつて自身が青歌に退けた李牧を再び趙の大将軍として呼び戻したのだった。
つまり原作における「大将軍の帰還」は廉頗の帰還というミスリードを狙いつつ実際は李牧の帰還を指していたが、映画における「大将軍の帰還」の意味もまた、
- 長らく存在しなかったはずの趙三大天として、あるいは匈奴を倒し馬陽に現れた大将軍・李牧
- 9年振りに現れたと思ったら趙三大天という大将軍になっていた龐煖
- 9年振りに第一線に復帰し敗れたものの、亡骸を趙国に辱められずに秦国に持ち帰ることができた王騎
というトリプルミーニングだったことが判明した。
馬陽を舞台とした映画の公開年である2023年と2024年の原作漫画では、奇しくも李牧が秦軍を打ち負かした肥下の戦いと番吾の戦いが描かれている。