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王都奪還編

おうとだっかんへん

王都奪還編とは、漫画『キングダム』におけるストーリーの括りの一つ。
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概要編集

漫画『キングダム』において王弟・成蟜が起こした反乱によって玉座を追われた嬴政が玉座を奪還する話であると同時に、河了貂が出会う同漫画最初のエピソードでもある。


このお家騒動は史実では確認できない架空の内容だが、秦には丞相や大王に関わる兄弟が2人ずつ居たことから、バトル漫画としてうってつけの題材だったのは間違いない。

一方で、史実を見れば解るが作劇の分かりやすさを優先して省略したと思われる設定が多い。

主に嬴政の出生絡みだが後に作中で補完されるため、この話については丞相と兄弟の対立関係だけを把握して読めば楽しめるようになっている。


『キングダム』最初の話であるため漫画以外のメディア展開も広く行われ、2024年現在はアニメ(2012年)、実写映画(2019年)、舞台(2023年)が公開されている。


なお、成蟜の反乱は後年にもあるが、あちらは王弟謀反編と呼ばれることが多い。


以下はネタバレになりますので注意して閲覧してください。


経緯編集

紀元前245年(始皇2年)、13歳で即位した国大王・嬴政は、若すぎるため執政ができず実質的なお飾りの王だった一方、朝廷の権力は右丞相・呂氏と左丞相・竭氏に二分され、血で血を洗う抗争が起きていた。

呂氏は嬴政の庇護者であるため権力は上だが、竭氏は密かに玉座を狙っていた王弟・成蟜と繋がり、呂氏派の魏遠征に乗じ嬴政や昌文君とその私兵も殺害し、その罪を昌文君と呂氏派に被せる予定だった。

だが昌文君はこの事態を想定し、自身とその私兵だけで反乱を鎮められないと算段していたことから、嬴政の脱出計画を練った。

脱出時に兵が分散した後、いくつかの合流地で合流する計画を立てていたが、その選定の帰り道から『キングダム』の話が始まる。


成蟜がクーデターを起こした経緯についても先に記載しておく。

クーデターから5年前、昭襄王が崩御し安国君が次の国王、嬴政と成蟜の父である子楚(荘襄王)が太子になったことにより、次期太子(事実上の次期国王)は嬴政と成蟜のどちらかになったのだが、この2人は母親が異なる異母兄弟だった。

片や嬴政の母は趙国の舞妓で単なる平民だが美人、片や成蟜の母は詳細な設定は明かされなかったが、少なくともそこまで美人ではない皇族だったことが判明している。

成蟜は生まれが皇族同士の子であるなら育ち方も皇族の子であり、周りへの対応も暗君そのものだったものの、兄の存在を知る直前までは稀代の名君になると甘やかされていた。

その思想は、「人間の性は生来『悪』で生まれもって愚かと断じるのに対し、王族は生まれながら至高の存在の支配種で、平民の立場がより低く、王族の立場がより高くあるほど国は富む」と言い放つほど。

だが、嬴政が太子になったことによって成蟜や周りの対応も変わっていった。

成蟜は、嬴政が太子になった直後に見下されるような目で見られ、家臣たちも成蟜から離れていった。

成蟜の母は、嬴政の母が後宮に入ったことで正妃の座を奪われた上に夫である荘襄王から見向きもされず、元々後宮内での評判も悪かったことから心を病んでしまった。

要するに王族の血を引かない人間によって王族である成蟜と母親が淘汰されたのである。


「5年前までのあるべき姿に戻す」という言葉通り、表向きの動機は純粋な王族だけが国を支配すべきという思想によるものだが、信が言うように本音の所はぽっと出の兄に王位を取られた逆恨みである。

5年前とは確かに純粋な王族による支配もあるが、成蟜の精神の未熟さを鑑みるに自身が甘やかされ栄華を誇っていた過去も内包されているものと考えられる。

成蟜と母親の関係が良好だったこともあり、成蟜の立場が悪くなって間もなく後宮の母を訪れたのも、心を病んだという真偽の確認の他、母に甘える意図もあったかもしれない。


なお、子楚が本来なら王位継承権すら無く、呂氏の計らいによって大王に至ったことについては否定的に見ていないが、呂氏が丞相に就いていることは当然問題としており、下記の通り正式に大王になった後で竭氏と共に呂氏に対して全面戦争を仕掛けるつもりだった。


無名の少年との出会い編集

選定の帰り道の御車から昌文君が見たものは、2人の男子が木刀で剣戟している様子だった。

彼らは戦争孤児のと名乗り、これまでに1000を超える仕合を繰り返し、ゆくゆくは戦に出て大功を挙げ天下最強の大将軍になるという、奴隷の身分からすれば不相応な夢を語った。

この時、昌文君はこの出会いが秦国の暗雲を切り裂くと考えていたとともに、実は漂の顔が嬴政と瓜二つだったことも見ていた。


翌日、昌文君は漂を王宮に連れて行こうとしたが、1日待ってほしいと漂に言われたので、連れて行ったのは次の日だった。

さらに1か月後、成蟜が本格的に武力抗争に踏み切った。

昌文君は大王・嬴政を先に脱出させ、大王の替え玉である漂とともに王宮を脱出するも、彼らを追って王騎率いる王騎軍が現れ、昌文君と漂は引き離された。

王騎との一騎打ちにより昌文君は戦線を離脱する羽目になり、漂は昌文君軍の副官・と共に王騎軍に追われていたが、騎馬に乗っていた漂は単騎で騎馬隊を突破したものの、後に朱凶によって致命傷を負いながらも信のいる城戸村まで戻り、信に黒卑村の地図を託し命を落とした(その後、信たちは作中の流れで漂を殺した朱凶を倒し、河了貂の助力などにより穆公の避暑地に着いた)。

昌文君は合流地で私兵を拾いながら穆公の避暑地に辿り着いたが、そこではムタを斬った直後の信、信の戦いを見守る嬴政と河了貂が居た。

ムタを斬り伏せ、嬴政の無事に涙を流す昌文君だが、状況が最悪なのは理解していた。


そもそも呂氏派は竭氏と成蟜の反乱を鎮める気など全くないどころか、成蟜が王に即位した後で彼らを糾弾し、秦国の首都・咸陽に攻め込み咸陽内の王族を皆殺しにするつもりだったのだ

呂氏は元々商人、即ち平民だったのだが、今回の反乱は王族である竭氏と成蟜が主導していたため、彼らや王族を皆殺しにすれば平民からの支持は容易く得られ、次期大王は呂氏になるのは想像に難くなかった。

また、竭氏は嬴政の生死が分からない状況が長引いたとしても、準備が出来次第、成蟜を強引に次期国王にし、呂氏との全面戦争を行うつもりだった。

どちらにせよ丞相同士の争いは秦国を二分するほどの大規模な戦争になるのは間違いないため、嬴政は一刻も早くこの反乱を平定したかった。

だが、王騎軍によって壊滅に追い込まれた昌文君の私兵はもはや軍と呼ぶことすらできないほど小規模になっており、脱出時点から竭氏の暴挙を止めるのは無理だったので今更の話だが、明らかに詰んでいる状況だった。

そう、穆公の避暑地にまつわる話を思い出すまでは。


山の民と嬴政の路編集

400年前、穆公という秦の名君は、山の民と盟を結んでいたが、彼の亡き後は盟が途絶えていた。

嬴政らは穆公の避暑地に着き、信と河了貂にこの話をした時点で、その山の民との盟を復活させるべく山の王に会いに行くことを考えていた。

山の王・楊端和に会ったものの、あちらが嬴政に会った目的は、穆公亡き後の山の民に行った仕打ちの清算として、首を刎ねる為だった。

しかし嬴政は「異なるもの(民族・文化・信仰)が交わるのに一滴の血も流れなかったことがあろうか。長年積み重なった差別と侮蔑、恨みの心が消えたことがあろうか。穆公1人の出現で数百年の軋轢が消えたと思う方が安易」と非難。

だが、これの意味する所は決して楊端和が考える国の広がりを否定するものではなく、恨みや憎しみにかられて王が剣を取るなら怨嗟の渦で国が滅ぶ。王ならば"人を生かす"道を拓くために剣をとるべきという考えから来ている。


秦人や山の民と、同じ人間であるにもかかわらず分けることで摩擦が起き、昔からそうなっているからそれがあたかも当然になっているのが現状である。

山の民にとっては平地の人間はみな同じだが、中華の平地の人間は延々と殺し合い奪い合いをする歴史を続けており、戦いの激化に伴い国境には長い城壁ができ、それにより内と外、敵と味方がより強く明確になっていった。

確かに穆公のような名君が現れ一時は安定が得られたが、嬴政が目指すものはそれ以上だった。

即ち、全国境の廃除

一見すると"人を生かす"道のために剣を取るべきという主張と真逆だが、中華500年の歴史で奪い合いや殺し合いが続いている以上、今後500年も同様の争乱が続く可能性は大いにある。

だから、その争乱による犠牲を無くすために剣を取るのだ。

今後500年に及ぶ可能性のある争乱を止めるための全国境の廃除を行い中華を統一する最初の王になる第一歩として玉座を奪還することが、嬴政の目的だった。

世界を広げたいという思いは楊端和も同様だったが、山の民の老人は先祖の恨みを晴らすことしか考えておらず、その凶刃はまさに人質として捕えられた信たちに向かう所だった。

だが、縄を解いた信は山の民に反抗し、

一番の無念は夢見ていたものが幻に終わったこと

もし本気で死んだ山の民を想うなら、彼らの見た夢を現実に変えてやることだと一喝。

これにより山の民と秦国(厳密には秦王・嬴政)の間に400年振りの同盟が復活した。


王都奪還編集

楊端和の号令により山の民の軍勢が結集されるも、数はなんと3000しかなかった。

王都・咸陽で待ち受ける成蟜・竭氏の軍は8万に及ぶため、普通に戦うなら確実に負ける。

よって山の民側は、咸陽にて秦国と同盟を結ぶために王宮に来たと告げ、王宮に侵入した。

王宮の内部の途中で武装を解除することになるため、その途中から開戦の火蓋が切られた。

城門を1つ突破し、正面の本隊と回廊の別動隊の二手に分かれた嬴政らは、それぞれで戦いを展開し、別動隊は死闘の末に左慈を倒し、ランカイを戦意喪失にまで追い込む。

もはや戦える者が居なくなった中、成蟜は「玉座に在る王を切るのか」と糾弾する。

だが、信は「あるんだよ。戦争だからな。しかもお前が始めたんだ!」と論破されたことで、成蟜は呆然と立ち尽くした。

周りの家臣は逃げようとしたが、王騎が向かわせたにより逃げ場を失い、竭氏も山の民に切られ死亡。

これに乗じて成蟜は逃げるも、あろうことか嬴政が戦う王宮前に現れた。

同時に王騎軍も登場したが、王騎は将軍・魏興を切り伏せ、嬴政と問答を交わしただけで撤退した。

残ったのは、成蟜の出現と竭氏の首を見たことで敗北を認識しつつある竭氏派の兵士と、勝利を確信しつつある嬴政・昌文君軍・山の民だった。

そして彼らの只中で対峙する嬴政と成蟜の兄弟。

「天(たか)みでそり返っているだけで民の心を知らない成蟜には周りを見下すことしかできず、人を知らぬ、世を知らぬ、だからお前はいつも唯1人だ。お前では王はつとまらぬ」と嬴政は言い放つ。

成蟜は返す言葉もなく嬴政を切ろうとするも、成蟜が剣を振り上げた腕に嬴政の剣を突き刺した。

成蟜は腕から血が出たことで悶えるが、「血がどうした。これまで大勢が死んだんだぞ」と一蹴。

なおも嬴政の生まれのことしか追求しない成蟜を「人の痛みを知れ」と言い顔面を何度も殴りつけ、成蟜も謝罪の言葉(上記の台詞に対してではなく、単に子どものように殴られたことに対して反射的に対応しているだけ)を発することしかできなくなり、クーデターは終結した。


顛末編集

嬴政の宣言により竭氏派については大半が生き残った。

これから呂氏派との勢力争いに突入するため、1人でも多く嬴政側に抱え込む(または呂氏派と勢力差をつけない)必要があるからである。

信は上記の功績により土地・家(ボロ小屋)・戸籍を手に入れたことで、戦争に参加できる権利を得た。

河了貂は山の民の末裔なので連れ帰る予定だったが、信と同居することになった。


余談編集

  • 作中で言及はないが、今回のクーデターは呂氏にとってはどう転んでも問題ない構図だった。上記の通り嬴政が殺されれば、それを糾弾し咸陽内の王族を皆殺しにすることで、平民の支持は呂氏に傾く。嬴政が死なない場合は作中通りの流れになるか、竭氏は呂氏との全面戦争を行うつもりだった。嬴政が反乱を鎮める際に仮に成蟜を殺していた場合も、やはり呂氏は反乱によって王弟を殺害したと糾弾し、山の民と全面戦争に発展するも結局呂氏が勝って次期大王になっただろう。
  • 以上を踏まえると、作中の流れで反乱を鎮圧させたのは最良の選択だったと考えられる。山の民との同盟も維持した上で、関係者や死傷者も最小に抑えられ、クーデター自体が国外には漏れていなかったことから、蕞の戦いの奇跡に繋がったのだ。
  • このクーデターは嬴政の指示により作中の世間的には無かったことになっているが、軍部間では信の経歴は知れ渡っているため、軍部間ではクーデターも知れ渡っていると考えられる。郭備は自身の経歴を語る際「ここ(戸籍を得た経緯)が君と違うんだが」と言及している。桓騎も元野盗で持ち家や戸籍は無い(奪った城などは有るだろう)が、蒙驁の副将になったことで持ち家である城も戸籍も獲得したと考えられ、時系列的に蒙驁の副将になったのは王都奪還編より前であるため、信の事情も把握していた。
  • 実は後に、漂が仕官していた頃に姓を貰っていたことが明かされた。姓を決める際に、嬴政が食べていた物が李(すもも)だったことから、漂は李漂と名乗ることになった。これがきっかけで、信も李信と名乗るに至ったのである。

関連タグ編集

キングダム


秦国統一編


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