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曖昧さ回避編集

1.春秋戦国時代のの武将→こちらで解説

2.上記を元にした漫画『キングダム』の登場人物→(将軍昇格に伴い「李信」と名乗る)


概要編集

経歴編集

中国語ではリー・シン(Li Xin)と呼ぶ。

史記』では「白起王翦列伝」、荊軻に触れた「刺客列伝」、子孫の李広李陵に触れた「李将軍列伝」において散発的に名前が登場する。

紀元前229年頃に秦の武将として表舞台に姿を現すが、それ以前の経歴は不明。王翦が数十万の軍の指揮を執ってと対峙した時に李信は趙の太原・雲中に出征していた。


紀元前227年、太子丹が差し向けた刺客・荊軻による秦王政暗殺未遂事件が起き、翌年にその報復として王翦王賁父子らが燕へ出兵、燕都・を攻略し燕王喜と太子丹を遼東に敗走させた。この際、李信は約千の兵の指揮を執って燕軍を追撃した。


紀元前225年、政がを征伐することを考え、どれだけの兵力が必要かを諮問した。その時、李信は「二十万」が必要だと語ったが、王翦は「六十万」が必要だと語った。政は、王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用し、蒙恬とともに軍の指揮官として楚侵攻を命じた。


李信は二つの部隊に分け、李信は平輿に、蒙恬は寝丘に進軍しそこで楚軍に大勝した。李信と蒙恬は、楚の首都・郢周辺を攻め、再び楚軍を破る。しかし、城父で李信と蒙恬が合流した所を、楚の大将軍項燕(項梁項伯の父で項羽の祖父)が三日三晩の強行軍で追跡して奇襲したことで、二ヶ所の塁壁を破られ七人の武将を失う大敗を喫してしまう。このため李信と蒙恬は楚攻めの大将を解任され、新たに王翦と蒙武(蒙恬の父)を大将に任じて六十万の兵で楚を攻め、楚を滅亡させた。


先述のような大失態を犯した李信だが処罰に厳しい秦国にもかかわらず粛清されたりしなかった。その後も将軍として活躍していたことから始皇帝には信用されていたと考えられ、かつての商鞅白起范雎※らの末路から見れば雲泥の差である。


※『史記』では穏便に隠退し生涯を終えたとされるが、自身の推挙した王稽が他国と通じた罪で誅殺された際に連座して処刑されたとも言われている。


なお、李信達が奇襲を受ける前日に、昌平君が配置していた旧楚都の郢陳(当時、李信達の後方に位置していた場所)で反乱が起きており、慌てて鎮圧するために引き返したところに項燕の奇襲を受けたため、反乱の件も考慮された可能性もあると思われる。


紀元前222年、王賁と共に燕の遼東を攻め、燕王喜を捕虜とし燕を滅ぼす。さらに代も攻めて代王嘉を捕え、代を滅ぼした。


紀元前221年、王賁や蒙恬と共に斉を攻めこれを滅ぼした。


これ以降の動向は記されておらず、死去した時期や理由などは不明。


子孫編集

『史記』では李信から玄孫の李広の間の系図は不明だが、北宋時代の欧陽脩らによって編纂された『新唐書』によると李超という子がおりの高祖(劉邦)に仕え幽州の漁陽太守を務め大将軍にまで出世した記載されている。しかし、『史記』に李超の記事がないこと、班固が著した『漢書』においても前漢の建国の功臣として記載されていないこと、『新唐書』そのものの資料価値の低さから信憑性を疑われている。


前漢の文帝・景帝・武帝の時代の将軍で呉楚七国の乱の鎮圧や匈奴討伐に活躍し「飛将軍」とあだ名された。しかし、不運の将としても知られ、衛青に従って参戦した最後の戦いで道に迷って遅参したことの責任を取り自刎した。この件で三男の李敢が憤り衛青を殴打し、李敢はこれを恨んだ衛青の甥の霍去病に射殺された。


中国において李広は養由基と並ぶ最高峰クラスの弓の達人とされ岩を虎と間違えて射た「石に立つ矢」の逸話を持つ。また司馬遷が李広の清廉さを評したことが由来の「桃李言わざれども下自ずから蹊を成す」のことわざでも知られる。後漢末期の群雄の一人である呂布も弓馬の達人だったため李広に擬えて「飛将」と呼ばれ、水滸伝の登場人物である花栄も弓の達人だったため「小李広」のあだ名が付いた。


李広の長男・李当戸の息子。日本では中島敦の同名の小説の主人公としても知られる。


ちなみに、かの有名な唐の詩人・李白も民間での伝承では子孫というが、史実において李白はそもそも漢人ではないという説もあり出身は謎である。


フィクションにおける李信編集

  • キングダム

を参照


秦王政から楚討伐について諮問を受けるシーンで登場。キングダムとの容姿のギャップについてネタにされることもある。


「丹の三侠」死後のエピローグで項燕に大敗し追撃を受けている一コマのみの登場。


余談編集

「史記」にも散文的な記述しか残っていないが、若くして秦の武将として活躍してきたことはたしかなようである。史記は紀伝体(年表で歴史を語るのではなく、歴史において活躍した個人を中心にまとめた歴史書形態)であり、活躍したその時代の人間には個別に項目が立てられているのだが、李信については個別の記述が無くどういう人間であったのかは分かっていない。

おそらくその後の秦がたどる滅亡と動乱によって李信の記録は失われていったのであろう。


確かなことは秦の統一事業に関わっていた中心メンバーの一人であることだけである。


関連タグ編集

 始皇帝

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