概要
昌平君(紀元前271年~紀元前223年)
楚が滅んだ後に反旗を翻したのは何故なのかは謎で、創作でも様々な解釈がなされている。死後、楚では秦に逆らった国士として民衆の人気が高まる事となった。
紀元前271年、公子啓(後の昌平君)は楚の太子完が人質として秦に滞在中、昭襄王の娘との間に生まれた。
紀元前263年、太子完は楚に逃げて考烈王として即位。残された啓は秦の孝文王の正室・華陽夫人(楚の公女)に養育された。
紀元前249年、秦の朝廷に出仕。
紀元前247年、荘襄王の子・政が秦王となる。
紀元前246年、御史大夫(副丞相)となる。
紀元前237年、呂不韋が相国を罷免された後、右丞相となった。尉繚と共に秦の軍事面に携わり、多くの将兵を育成して統一の原動力となる。
紀元前230年、秦が韓を完全に滅ぼすと楚の旧都・郢陳の民が動揺したため、昌平君に安撫させた。
紀元前226年、王翦は楚攻略での自分の見通しが秦王政に容れられず、老病の故をもって将軍を辞す。昌平君は王翦の件で秦王政を諌めたため丞相を罷免された。
紀元前225年、秦王政は楚を滅ぼすため李信と蒙恬の軍を寿春に向かわせる。昌平君がいる郢陳で反乱が起き、李信の軍がこれを鎮圧に向かったところ楚の項燕に急襲され、壊滅した。
紀元前224年、王翦が将軍に復帰し楚を攻撃。楚王負芻を捕らえ楚が滅亡。昌平君は項燕により淮南で楚王に立てられ秦に背いた。
紀元前223年、王翦・蒙武に敗れて戦死した。
紀元前221年、秦王政が中国を統一し、始皇帝となる。
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創作のキャラクターとしての昌平君
漫画「キングダム」
呂不韋四柱の一人。呂不韋の相国昇格に伴い、秦国の右丞相と成った。
作中開始の紀元前245年(始皇2年)の時点で秦国軍の司令官であり、軍師育成機関を自費で運営する(キングダム公式ガイドブック『英傑列紀』より)等、事実上秦国の軍事の責任者。
蒙武とは幼馴染であり、親友。
なお、什虎城の戦いでは満羽が挑発し蒙武が背負っているもののイメージが映し出されたが、それが昌平君であった。
知略を重んじる軍略家だが、李牧の纏う武の空気を感じ取るなど、武人としての一面も持つ……というよりむしろ呂氏四柱の中でもその思考は蒙武と並んで武の方に偏っており、詳しくは下記の「来歴」に譲るが、これが政治家に特化した、あるいは武人ではない呂不韋との決裂の決定打になったと考えられる。
実戦での指揮は毐国軍による咸陽侵攻での防衛が唯一(ちなみに昌文君も戦場での昌平君の実力は知らなかった模様)だが、それ以前から蔡沢は「蒙武より強い男」と評し、昌平君の側近である介億は「誇張して言うなら武力は蒙武級」「誇張なしに頭脳は李牧級※」と評している。
上記の戦いでは矛を用い、「馬に騎乗しながら相手の矛を所謂マトリックス避けで躱しながら相手の顔面に矛の刃を当てる」(この描写が一コマ)、「矛の一振りで相手の甲冑を破壊する」(これも一コマ)、「矛を振り下ろすワテギの右手首を一太刀目で斬り落とし、ワテギの首を二太刀目で斬る(六コマ)」といったように、僅か数コマながらも矛を扱う技量も矛による破壊力も驚異的である上、騎乗している間一切の汗をかいておらず、檄を飛ばす以外は普段のように涼しい顔をしていた。
ただし、キングダム公式ガイドブック『戦国七雄人物録』における武力は蒙武どころか王翦や桓騎にも及ばない。
現場での戦いに長らく出ていないことで、作中のインフレに着いて行けていない可能性を示唆しているのかもしれないが、今後作中で戦うことがあれば、上記のように矛や馬上の技術、蒙武に劣るものの力もかなりあるという器用万能さで差別化を図るものと思われる。
※函谷関の戦いに限れば2日目以降は媧燐の作戦であるため、頭脳は媧燐も上回っている。
また、知略での戦いは現場判断や結果論に救われた戦いがいくつもあるとはいえ、作中での明確な敗北は肥下と番吾のみ(馬陽は表向きには勝利していることになっている他、鄴は昌平君が立てた軍略が使えなかったものの、王翦に対し軍略が使えなかった場合の指示も行なっていたため、一概に敗北とは言えない)と、恐るべき戦歴を誇る。
一方、その軍略に対する自信の高さが仇となっている面もあり、宜安攻めでは結果的に桓騎の現場判断に依存したため敗北を招き、番吾も王翦の自身の軍への過信により敗北している。
ちなみに昌平君と同じく胡傷から高い評価を得ていた王翦に対しては、高い信頼を持っている節が見られる。
具体的には鄴と番吾では総大将に任命した他、宜安攻めは元々王翦の提案であり、昌平君としても宜安奪取のメリットが大きいために相成った経緯がある。
従軍した兵に対しては勢力に関係なく公平に評価しており、作中で信が順当に昇格していたり、河了貂を大王勢力と知りながらも軍師として育て上げ、蒙毅の事情もあったとはいえ結果的に飛信隊に配置したりなどしていた。
信に対する評価は王騎が目にかけていたのもあって高めであり、飛信隊を独立遊軍として育ててきた成果は鄴などで発揮されている(独立遊軍については王賁や蒙恬も同様)。
そもそも昌平君が運営する軍師養成機関は呂氏四柱の公務から切り離し政治色を持たせないようにしており、全国(国を問わず戦国七雄の全て)から軍師を目指せる教育機関である模様。
「キングダム」での来歴
作中の戦いは秦国軍総司令である間は全て関わっているが、全てを挙げるとキリがないため、特に昌平君の考え方を推測するにあたり重要な話のみ抜粋する。
昌平君は中華統一を夢に抱く男の一人である。
その関係かは定かではないが、元々は六大将軍の一人・胡傷の弟子であったとされる。
このため軍略については作中最強クラスの実力者のはずだが、理由は不明ながら呂不韋に登用されるまでは才能を燻らせていたらしい。
同じく王翦も冷遇されていたが、あちらは「自身の国を創る」という野心を抱いているためであり、昌平君とは事情は異なると思われる。
公式ガイドブックの記載によると「複雑な生い立ち」とのことだが……
なお、昌平君が呂不韋から離反する際、呂不韋からは「貴公は本来人の下につくような人物ではない」と言われている。
「貴公」とは対等の関係の人や目下の人に対して用いられる表現であり、相国である呂不韋にとっては丞相の昌平君に用いるのは適切である。
一方、昌平君が離反を宣言した返しに「お前」と雑な扱いをする二人称を用いた所から「貴公」と言い直したことを踏まえると、元々は呂不韋並みかそれ以上に身分の高い人物であるため、あえて身分が高くなるような表現を用いたとも考えられる(元々自分より立場が上だった者を、自分が起用している間は自分より下という位置付けで扱っていたが、自分から離れる際に、その相手を本来の身分相応に持ち上げているという推測である)。
紀元前249年に呂不韋が丞相に昇格した際に、李斯や蒙武とともに呂不韋によって登用され、3人で才覚を発揮し、昌平君は『キングダム』作中開始の紀元前245年の時点で秦国軍の総司令官として軍師育成機関を自費で運営する等、事実上秦国の軍事の最高責任者に就任している。
僅か4年という出世の早さも気になるが、それ以上に昌文君のような軍略に明るい武人を含め、大王勢力が軍略に関して異議を申し立てた様子は作中で見られない。
作中及び公式ガイドブックでは言及されていないが、史実では前秦王・荘襄王が即位した紀元前249年に呂不韋が昭文君によって統治された東周を滅ぼしている。
この功績が昌平君に因るものなら、国家滅亡規模の軍略を考えられる重要人物として重用され続けるのは妥当だろう。
紀元前244年、王騎を総大将として馬陽の防衛に臨み、表向きには馬陽の防衛には成功したものの、王騎を殉職させてしまった。
咸陽で訃報を受けた際、普段の涼しい表情から汗が流れているが、後述の肥下や番吾の描写を踏まえると、内心は「王騎を総大将に据えながら王騎を戦死させた」「結果だけ見れば勝利しているが実質的に李牧に敗北した」「(昌平君が中華統一の夢追い人であるため)中華統一において重要な最後の六大将軍(もっと言えば師の胡傷と同じ六大将軍)である王騎という天下の大将軍を失った」という、少なくとも3つの自責の念に駆られていたと考えられる。
紀元前243年に秦趙同盟を締結する際、王騎に矛と飛信隊を託された信、馬陽での副将蒙武と王騎軍の後を継ぎ最も王騎の死を悼んだであろう騰に対し、温情として李牧暗殺の機会を与えている。
この後、蒙驁を総大将とし魏国の山陽を奪取したが、これが翌年の合従軍の引き金となってしまう。
しかし、山陽以前に昌平君の名声が高くなるような大規模な戦いが無かったためか、紀元前242年の合従軍編時点では殆ど名が知られていない軍略家であり、合従軍侵攻の真意を李牧や春申君から聞かされた時、魏の呉鳳明は秦にも深い手(山陽奪取を足掛けとした中華侵略)をうつ者が存在すると驚き、韓の成恢は本気で中華を狙う危険な虎と評していた(アニメではこのくだりはカットされている)。
昌平君の名声が高くなるような戦いが無いということは、良く言えば「昭王が生前に掲げていた中華統一事業を、昭王の崩御後も継続していた」事実を山陽奪取まで隠していたことを示し、その目論見が露見し合従軍という対策を取られ「お前にしてはぬかったな」と言った蒙武に対し「たかをくくっていた」と返答している。
一方、悪く言えば昌平君には秦国で大将軍として兵を率いる武力も名声も無いため、蕞の戦いにおいて民間人を率いることに対し「私でさえそれは無理でしょう」と否定したため、下記の通り暗殺を回避する目的もあるが、嬴政が出陣するに至った。
合従軍が過ぎた後から昌平君は呂不韋に対して心離れが起きていたと蔡沢は述懐していたが、作中の過程は以下の通り。
秦軍は函谷関防衛に成功したが、今度は李牧軍が南道を通って咸陽に侵攻したため、麃公軍や飛信隊によって時間が稼げたことも相まって、昌平君は南道に打って出て李牧軍と戦う策を考え、昌文君とともに仮想戦を重ねることとなった。
だが、呂不韋は「対李牧の仮想戦などできるものか」と懐疑的だったため、この時点で李斯に命じ、朱凶ら暗殺団を王宮に招き入れ嬴政の暗殺を企てた。
というのも、秦の国民を救うだけなら嬴政の首を李牧軍に差し出すことで、秦の滅亡をのむ代わりに咸陽を無血開城させ、滅んだ秦の次期国王に呂不韋を据えることで話を済ませることができた(加えて李牧も蕞に嬴政が居ると判明するや否や同じ考え方をしていた)からである。
しかしこの暗殺の件は昌平君には全く説明されておらず、呂氏派の噂話として知ったため李斯に事実確認を行おうとしたタイミングで暗殺される側の大王・嬴政から蕞での迎撃について打診を受け、この対談により呂不韋への承諾なしに嬴政は蕞へと出陣し、結果的に防衛に成功、戦後に大王に対する求心力を引き上げることとなり、政治の影響力において呂氏派と大王勢力が拮抗するようになった。
上記の太字で示した通り、昌平君と呂不韋には蕞の戦いにおいて情報伝達に齟齬が生じていたのが最大の理由である。
軍総司令である昌平君にとっては呂不韋が軍略にもかかわる重大な事象であるにもかかわらず何らの相談もしなかったこと、相国の呂不韋にとっては昌平君もまた咸陽防衛以外に頭を回さず呂不韋の企てを意識せずに暗殺を阻止する運びとなったことが、それぞれ問題となった。
李牧軍との防衛戦の渦中で嬴政が暗殺された場合、南道で迎撃する予定の兵たちの士気に影響する他、そもそも秦国中がパニックを起こすのは想像に難くない。
嬴政が咸陽から出陣した後で呂不韋に対し「それ(秦国軍総司令として咸陽防衛に徹する)以外のことは取るに足らぬ小事」と発言した上で、さらに介億他100人を蕞に派遣したことから、昌平君の考え方が軍略に偏っているだけではなく、呂不韋の政治的な考えに対する否定にも繋がっている。
さらに今回の防衛で既に大将軍の張唐と麃公および何万人もの秦国兵も失った状況下で、秦国の心の支えとも言える大王・嬴政を安易に失わせるとすれば、その責任を昌平君が引き受けることになり(後述の番吾のけじめのつけ方を鑑みると)自決しかねない。
また、呂不韋と昌平君および嬴政の考え方は「政治家(後の嬴政と呂不韋の対談から引用すると「一文官としての域を出ない考え」)」と「武人(あるいは秦国の存亡に対する重責を負った立場)」といったように、そもそも今までの防衛で失われた兵士、あるいは今後秦国内で犠牲になる人たちに対する認識が大きく異なる。
これは双方の中華統一に対する考え方の相違(詳しくは「後の嬴政と呂不韋の対談」のリンクを見てもらいたいが、呂不韋から離反した昌平君も嬴政に同調しているのは明らかである)もあるだろうが、それ以前に国民の命を預かっている立場の発言かが問われるべきであろう。
呂不韋は王弟謀反編以降の動向も見ると、自分の権力をあげるためなら国民の命を何とも思わない暗君としての性質が強い。
「商人から貨幣を用いて人や資源や権力を肥やしてきた」呂不韋にとっては「武人として人や資源といった限られたものを守る」といった考え方ができないのかも知れない。
一方、嬴政や昌平君が守ろうとしているもの、あるいは今後の侵略で為そうとしているものは、中華統一により戦争を終結させ今後の命の奪い合いを無くしたり無駄な血を流させないようにしたりすることである。
そのためには傀儡として存在する王や王族の血筋にこだわる考え方、あるいは権力闘争にしがみつく呂不韋のような王を据えるのは不適切であり、現在あるいは未来の国民の生活を守るために尽力する王が必要なのである。
だが、長年仕えてきた昌平君さえ呂不韋の真意を推し量ることはできておらず、彼が国王になった場合に昌平君が描く中華統一が可能かは不明瞭だった上、作中で後に明かされた呂不韋の思想は、結果論ではあるが昌平君の目指すものとは相容れないものであった。
総じて、呂不韋とは思惑の不一致が次第に可視化される一方、自身の夢を預けるに足る器を嬴政が持っていたため、紀元前238年の加冠の儀でついに呂不韋から離反した。
加冠の儀で反乱が起きることを察知していたため河了貂に軍略指令に扮した咸陽への帰還を指示した暗号文を送っている他、毐国の反乱に備えて自らの私兵団も咸陽に留め、飛信隊らに自身も含めて加勢し、反乱鎮圧に貢献した。
戦後、中華統一のために秦国の国民が一丸となって他国を討ち滅ぼせる極限状態を維持できるのが15年と計算したことで、15年に渡る壮大な中華統一のための戦いが始まる。
ところが李牧が王建王と来秦した際に趙国と秦国の全面戦争が確定したことで、李牧は奪取されたばかりの黒羊を足掛けとした趙西部からの侵攻を阻止すべく猛スピードで築城を進めたため、紀元前236年、昌平君は李牧を出し抜くべく下策中の下策と自称する趙南部の鄴城への奇襲策を考案し、侵攻を開始。
しかし昌平君などの軍師が考案した策は、総大将・王翦が鄴城を確認したところ不可能と判断されたため、王翦の策に切り替えられ、結果的に秦軍が勝利する。
そして鄴戦後、秦国の武威を示すためかかつて昭王の時代にあった六大将軍制度を復活させた。
また、鄴戦後は李牧が幽閉されたり青歌城に逃げたりして秦国としては鄴を足掛かりに王都に迫る絶好の機会だった上、影丘付近の趙南部で硬直していた前線に、鄴南部に位置する魏国への防衛として布陣していた秦兵をその前線に送るため、紀元前235年、鄴南部に位置する魏国と秦魏同盟を締結するべく魏国との連合軍で楚の什虎城を侵攻し、戦後、魏に什虎城を譲渡し秦魏同盟を締結した。
紀元前235年から234年の間に影丘・武城・平陽を奪取したが、李牧の指示で趙南部に長城を建築した郭開と李牧の復帰により趙南部の侵攻が難しくなったことで、趙の王族の逃げ道を塞ぐために、紀元前233年、太原と趙南部からの北上の挟撃による趙北部の宜安侵攻を敢行するも大敗し、六大将軍桓騎を殉職させる結果に終わった。
そもそも宜安攻めについては(王翦の意見もあるが)何より昌平君の進言・判断が大きかったこともあり、「すべて私の責任だ」と自責に駆られることとなった。
紀元前233年の肥下敗戦および桓騎の訃報の際も、自身の策によって李牧に完全敗北したことで「全責任は私にある」と深く自責したことで、趙侵攻に傾倒していたこれまでの策を捨て、韓侵攻など広域に手広く侵攻する方針に切り替えている。
また、紀元前232年の番吾敗戦の際は自害まで考えたが、6日間文字通り命懸けで策を練り、「秦国の未開地の戸籍作り」「李信・王賁・蒙恬の昇格に伴う軍部強化及び強制徴兵」「韓の滅亡」の三本の柱をもって韓攻略を計画・実行した。