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昌平君

しょうへいくん

昌平君は、中国戦国時代の楚の公子。また、同時代を背景にした漫画『キングダム』の登場人物。本記事では主に後者を取り扱う。
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史実

考烈王の子。公子ながら若くして人質としてに赴き、秦で頭角を現し相国(大臣の最高責任者クラス)にまで出世する。

尉繚と共に秦の軍事面に携わり、多くの将兵を育成して統一の原動力となる。


紀元前238年、嫪毐が背くと昌文君と共に鎮圧した。


紀元前223年、しかし楚王負芻が秦に捕らえられ、楚が滅亡すると楚の将軍項燕により淮南で楚王に立てられ、秦に背いたが、王翦蒙武に敗れて戦死した。

人質の身から秦の中で頭角を現し、楚が滅んだ状態で何故反旗を翻したのかは様々な憶測が有り、創作作品では様々な解釈がなされている。


理由はどうあれ死後、楚は秦に最後に逆らった叛逆の国として民衆の人気が集まる事となった。


キングダムの概要

CV: 諏訪部順一 演:玉木宏


呂不韋四柱の一人。呂不韋の相国昇格に伴い、秦国の右丞相と成った。

作中開始の紀元前245年(始皇2年)の時点で国軍の司令官であり、軍師育成機関を自費で運営する(『キングダム公式ガイドブック 英傑列紀』より)等、事実上秦国の軍事の責任者。

蒙武とは幼馴染であり、親友。

なお、什虎城の戦いでは満羽が挑発し蒙武が背負っているもののイメージが映し出されたが、それが昌平君であった。


知略を重んじる軍略家だが、李牧の纏う武の空気を感じ取るなど、武人としての一面も持つ。

実戦での指揮は毐国軍による咸陽侵攻での出陣が唯一だが、それ以前から蔡沢は「蒙武より強い男」と評し、昌平君の側近である介億は「誇張して言うなら武力は蒙武級」「誇張なしに頭脳は李牧級※」と評している。

上記の戦いでは矛を用い、「馬に騎乗しながら相手の矛を所謂マトリックス避けで躱しながら相手の顔面に矛の刃を当てる」(この描写が一コマ)、「矛の一振りで相手の甲冑を破壊する」(これも一コマ)、「矛を振り下ろすワテギの右手首を一太刀目で斬り落とし、ワテギの首を二太刀目で斬る(六コマ)」といったように、僅か数コマながらも矛を扱う技量も矛による破壊力も驚異的であることが判明している(さらに言えば昌平君は騎乗している間一切の汗をかいておらず、檄を飛ばす以外は普段のように涼しい顔をしていた)。

ただし、『キングダム公式ガイドブック 戦国七雄人物録』における武力は蒙武どころか王翦や桓騎にも及ばない。

現場での戦いに長らく出ていないことで、作中のインフレに着いて行けていない可能性を示唆しているのかもしれないが、今後作中で戦うことがあれば、上記のように矛や馬上の技術、蒙武に劣るものの力もかなりあるという器用万能さで差別化を図るものと思われる。


また、知略での戦いは現場判断や結果論に救われた戦いがいくつもあるとはいえ、作中での明確な敗北は肥下番吾のみ(については昌平君が立てた軍略が使えなかったものの、王翦に対し軍略が使えなかった場合の指示も行なっていたため、一概に敗北とは言えない)と、恐るべき戦歴を誇る。


※函谷関の戦いに限れば二日目以降は媧燐の作戦であるため、頭脳は媧燐も上回っている。


来歴

昌平君は中華統一を夢に抱く男の一人であった

その関係があるかは定かではないが、元々は六大将軍の一人胡傷の弟子であったとされる。

このため軍略については作中最強クラスの実力者だったはずだが、理由は不明ながら呂不韋に登用されるまでは才能を燻らせていたらしい。

同じく王翦も冷遇されていたが、あちらは「自身の国を創る」という野心を抱いているためであり、昌平君とは事情は異なると思われる。

しかし昌平君の生い立ちは複雑とされており……


紀元前249年に右丞相に呂不韋が昇格した際に、呂不韋によって登用された。

それまでは李斯蒙武とともに才覚が燻っていたとされ、呂不韋によって才を見出されたと言える。

ところが上記の通り、『キングダム』作中開始の紀元前245年(始皇2年)の時点で既に秦国軍の総司令官であり、軍師育成機関を自費で運営する等、事実上秦国の軍事の最高責任者に就任している。

出世の早さも気になるが、それ以上に昌文君のような軍略に明るい武人を含め大王勢力が、軍略に関して異議を申し立てた様子は作中で見られない。

作中では言及されていないが、史実では前秦王(荘襄王)が即位した同年に呂不韋が昭文君によって統治された東周を滅ぼしている。

この功績が昌平君に因るものなら、国家滅亡規模の軍略を考えられる重要人物として重用され続けるのは妥当だろう。


しかし、彼の名声が高くなるような大規模な戦いがなかったためか合従軍編時点では殆ど名が知られていない軍略家であり、合従軍侵攻の真意を李牧や春申君から聞かされた時、魏の呉鳳明は秦にも深い手(山陽奪取を足掛けとした中華侵略)をうつ者が存在すると驚き、韓の成恢は本気で中華を狙う危険な虎と評していた(アニメではこのくだりはカットされている)。


また、蕞の戦いで嬴政は昌平君に対し自ら蕞の一般人を率いて李牧軍を討つ提案を持ちかけた

呂氏派の昌平君としては、秦の国民を救うだけなら呂不韋が企てたように、朱凶ら暗殺団を王宮に招き入れ、嬴政の首を李牧軍に差し出すことで秦の滅亡をのむ代わりに、咸陽を無血開城させ、滅んだ秦の次期国王に呂不韋を据えることで話を済ませる手もあった。

だが、長年仕えてきた昌平君さえ呂不韋の真意を推し量ることはできておらず、彼が国王になった場合に昌平君が描く中華統一が可能かは不明瞭だった上、作中で後に明かされた呂不韋の思想は、結果論ではあるが昌平君の目指すものとは相容れないものであった。

また、呂不韋が軍を動かす際は大王勢力の弱体化を意図した政略が絡んでいることも多く、武人ではないため致し方ない面もあるとはいえ、軍の動かし方が軍略家の彼と噛み合っていないことも多々あった。


対照的に大王勢力の昌文君とは意見の一致が多く見られ、大王勢力故に軍を自由に動かすことはできていないものの、軍略会議では呂不韋が疑問視・意見する→昌文君が反論→昌平君が同調しその通りに軍略が動く、という流れが恒例だった。

さらには函谷関の戦いで昌平君の作戦が成功し函谷関が落ちなかったことで他の文官が沸き上がる中、昌文君が話しかけてきて、互いに手を組んで作戦成功の歓びを分かち合ったこともあった。

また、嬴政の中華統一は武力行使がメインであることは明白であり、昌平君が夢見る中華統一と合致していたのは想像に難くない。

秦が滅亡に瀕している状況で、(戦闘経験の一切ない蕞の国民を奮起させることのできる将軍が存在しなかったため)大王自らが打って出るという昌平君自身も想像しなかった奇策(呂不韋が考えるように暴挙とも言う)を提案する知略と大胆さを兼ね備えていたこともそうだが、自身が戦場に立ってでも秦を救おうとする雄姿から、本気で中華統一を目指す覚悟と器を持っていると確信に至っていた。


総じて、呂不韋とは思惑の不一致が次第に可視化される一方、自身の夢を預けるに足る器を嬴政が持っていたため、加冠の儀でついに呂不韋からの離反に至った

加冠の儀で反乱が起きることを察知していたため、河了貂に軍略指令に扮した咸陽への帰還を指示した暗号文を送っている他、毐国の反乱に備えて自らの私兵団も咸陽に留め、飛信隊らに自身も含めて加勢し、反乱鎮圧に貢献した。


中華統一のためなら大王勢力だろうと呂氏勢力だろうと公平に評価していた。

作中でが順当に昇格していたり、河了貂を大王勢力と知りながらも軍師として育て上げ、蒙毅の事情もあったとはいえ結果的に飛信隊に配置したりなどしていた。

信に対する評価は王騎が目にかけていたのもあって高めであり、飛信隊を独立遊軍として育ててきた成果はなどで発揮されている。


李牧咸陽を訪れた際、信に李牧を殺す機会を温情として与えたこともあった。

なお、王騎の訃報を受けた際、昌平君も表情は崩さないものの額に汗をかく描写が見られたことから、同じ大将軍級の武人である彼にとっても王騎の死の影響は大きかったことが窺える。

肥下の敗戦及び桓騎の訃報の際も、自身の策によって李牧に完全敗北したことで「全責任は私にある」と深く自責したことで、趙侵攻に傾倒していたこれまでの策を捨て、韓侵攻などより広域に手広く侵攻する方針に切り替えている。


関連タグ

キングダム   呂不韋 蒙武


鶴見中尉同じヤングジャンプ作品の実写映画の中の人繋がり。あちらでは確実にラスボスである。

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