ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

目次 [非表示]

概要編集

(在位:紀元前262年~紀元前238年)


頃襄王の子として生まれ、完は太子に立てられる。

紀元前272年、と和平を結んだ際、人質として侍従黄歇(後の春申君)と共に秦に入った。後に秦の右丞相となる昌平君は太子完と秦の昭襄王の娘の間に生まれた。


紀元前263年、頃襄王が病に倒れた。国外にいる太子完は国許にいる公子達との相続争いで不利なため、黄歇は秦の宰相范雎に太子完を帰国させるように願った。范雎からこれを聞いた昭襄王はまず黄歇を見舞いに返して様子を見させるよう命じたが、黄歇は太子完を変装させて楚へと帰国させ自分が残った。昭襄王は激怒したが范雎は黄歇の死を賭した態度に感服し、代わりに太子完の弟の公子(後の昌文君)を人質とするよう取り成し、黄歇も帰国できた。秋、頃襄王が薨去した。

紀元前262年、太子完は「考烈王」として楚の王に即位。黄歇は令尹に任じられ、淮北の12県を与えられ、「春申君」と号した。


紀元前259年、秦がに攻め寄せ邯鄲を包囲した。趙の公子の平原君が楚に派遣され救援を求めたが、考烈王は以前に秦に侵攻されて脅威に思っていたこともあり、渋って講和がまとまらなかった。業を煮やした平原君の食客毛遂は剣を帯びて、考烈王の目前に向かい「秦の白起は楚の首都を蹂躙して楚の父祖を辱めました。今回の合従は趙のためではなく、楚のためであります」と述べ、楚と趙の盟約が成立した。

紀元前256年、楚の援軍が新中に達すると秦軍は退いた。同年、を滅ぼし併合した。


紀元前241年、春申君が楚・趙・の5カ国連合軍を率いて、秦を攻撃したが敗走した(函谷関の戦い)。同年、東方の寿春遷都した。


紀元前238年、考烈王は側室の兄の李園に後事を託して崩御した。李園は春申君を殺害して公子悍を幽王として即位させ、自らは宰相の地位に就き権力を握った。


創作での考烈王編集

キングダム編集

漫画:原泰久

アニメのCV:高塚正也


第四十三代楚王。気位が高く、激しやすい性格。とにかく面子を気にしている。合従軍編では、開戦の号令を楚軍が掛けることを要望したり、臨武君汗明が戦死して楚軍が足を引っ張っている状況に怒りをあらわにしていた。

その後、始皇九年に崩御した。跡継ぎに恵まれず、崩御前に精神に異常のある王弟より、李園の妹が産んだ春申君の子を自身の子として次の楚王に即位させるよう、春申君と李園の三人で企てた。


次の楚王となった幽王のほか、幽王の死後即位した同母弟の哀王、哀王や李園兄妹を殺した国人たちに擁立された負芻(幽王・哀王の庶兄)などの子がいたが、幽王以外は登場していない。


また、昌文君は弟であり、昌平君は息子だが、少なくとも作中においてそのことに言及はされていない。


関連タグ編集

 キングダム 春申君

関連記事

親記事

兄弟記事

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました