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概要編集

本名:趙勝(?~紀元前251年)


中国戦国時代武霊王の子で政治家。

戦国四君の一人に数えられる。

恵文王は兄。孝成王は甥。

器量が優れ公平な人柄で食客を重んじた。このため食客は数千人に達し、その中には公孫竜鄒衍などもいた。

失言癖があり、そのため孟嘗君の食客たちに一県を破壊され、信陵君に食客の半分を奪われ、食客への待遇が春申君に劣っていると言われた。三たび宰相になり、三たび宰相の座を去った。


魏斉の亡命編集

紀元前266年、の宰相の魏斉の宰相の范雎に狙われており、趙へ逃れ、平原君はこれを匿った。秦の昭襄王は平原君を秦に招き「魏斉を殺さなければ秦から出さない」と脅したが平原君は断った。そのため昭襄王は趙へ使いを出し孝成王を脅した。孝成王は秦を恐れて魏斉に兵を差し向けたが既に逃げていた。魏斉は信陵君を頼って魏へ戻ったが、信陵君が面会をためらったと聞き自決した。信陵君が魏斉の首を趙へ送り、趙は秦に送った。これにより平原君は帰国することができた。


長平の戦い編集

紀元前262年、秦の白起を攻撃し、野王を陥落させたため韓の領土が南北に分断され、北部の上党郡は孤立。韓は諦めて上党を秦に割譲する事にしたが、上党郡の太守馮亭は、秦にくれてやるよりも趙にと言ってきた。「上党郡を受け取れば秦の矛先が趙に移るから受けない方が良い」と言う趙の平陽君に対し、平原君は馮亭の申し出を受けるべきとし、趙の孝成王は平原君の意見に従う。

しかし、これが原因で紀元前260年に長平の戦いが起き、趙は白起の軍に敗れ、降伏した40万人が生き埋めにされる大損害を被った。

秦の宰相の范雎は不仲な白起が大功を立てた事に危機感を持ち、昭襄王に説いて秦軍の進撃を中止させた。早期攻略のため敢えて捕虜を生き埋めにしたのに無駄になってしまい、白起は病気と称して出仕を拒む。


邯鄲包囲戦編集

紀元前259年、王陵率いる秦軍が趙の首都・邯鄲を包囲するが、城攻めは難航した。

平原君が考烈王や魏の信陵君を説得したため楚軍と魏軍も援軍に駆け付け、秦軍は敗退を重ね、王陵に交代した王齕鄭安平も敗北した。

秦の昭襄王は白起に指揮を取るよう要請したが、白起は屋敷から出ようとしなかった。昭襄王は自決用のを白起の屋敷に届けさせ、白起は剣を受け取ると自刎して死んだ。

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