史実
中国の秦の偽宦官。当初は呂不韋の食客であったが、秦王政(後の始皇帝)の母の太后と関係を持ち、一時は権勢を誇った。
『史記』呂不韋列伝によると、嫪毐は巨根で知られ、宴会の余興として自らの一物を軸に馬車の車輪を回して見せたという。その特技ゆえに、秦の宰相呂不韋に見出された。
呂不韋は政の母の太后と長年不倫関係を続けていたが、関係を清算したがっていた呂不韋は、自身の身代わりとして彼を後宮に送り込んだ。
呂不韋の思惑通り嫪毐は太后の寵愛を受け、2人の息子を儲けた。やがて、太后の後ろ盾をもとに次第に権勢を握り、多くの食客を擁するようになり、呂不韋に次ぐ権勢を誇った。また、嫪毐は河西太原(後の毐国)を封地とした。
だが、房事での出世は周囲の評判が悪く、密告により政に知られることになって、内偵により太后との密通が露見した。そこで嫪毐は御璽及び太后の印璽を盗み出して、兵を集めて反乱を起こそうとした。
しかし、既にそれに備えていた政の命を受けた楚の公子である昌平君と昌文君によって、咸陽で返り討ちに遭う。嫪毐は逃亡したものの、捕らえられて政により車裂きの刑に処され、その一族や太后との間の二人の息子もことごとく処刑された。
フィクションにおける嫪毐
キングダム
CV:坂詰貴之
概ね史実通りだが、後宮に来るまでの彼の人生と、太后との関係についてより詳細に書かれている。
元々は秦王室とは何ら関わりの無い下級文官の子だったが、ウドの大木と周囲に見下され、臆病故に武功で見返すことも出来ず、父の伝で文官の職に就いても役に立たず、自身の巨根を使った車輪回しの宴会芸で笑い者になるばかりの惨めな日々を過ごしていた。
しかしその芸が呂不韋の耳に入った事で、彼の人生は一変。
太后の淫欲を満たす男娼として宛てがわれる事となる。
当初は彼女の男狂いに怯んでいたが、体を重ねるうちに太后が心中に隠している悲哀を見て取った事で、彼なりに精一杯の忠誠を尽くし、太后の為に生きることを決意する。
その真心が太后にも届いたのか、彼女が交合の果てに嫪毐の子を身籠ると、太后は破滅と知りつつも出産を決意する。
著雍戦から二か月後、山陽長官に推す太后に伴われて朝廷に現れた。
その後、太后と共に山陽から太原へ移住し、建国に至った。
そこでは暴走しがちな廷臣を押しとどめる才覚も無く、ただ秦国に対する造反の旗頭として祭り上げられてしまう。
それでも二度と太后を悲しませないという誓いの下、愚鈍ながらも一角の男としての器量と風格を見せるようになる。
反乱鎮圧後、捕えられて車裂きの刑に処せられ一族もすべて誅殺されたが、取り調べでは反乱をすべて自らの計画として太后を庇い通した。
最期まで太后への愛に殉じて今までの感謝を述べたのち、従容として刑に臨んだ。
なお、表向きには嫪毐と、その子らは処刑されたことになっているが、子については嬴政が匿っており、国内が落ち着いたら引き合わせると太后に伝えている。
余談だが、男娼として姿を現した最初のデザインと毐国反乱編で再登場した時のデザインはやや異なっている。
達人伝
「丹の三侠」戦死後のエピローグの序盤に登場。史実通りの経緯で太后に仕える。しかし、太后とのことが露見したことで太后の印綬を悪用し反乱を起こすが、政の命を受けた王翦に敗れ捕らえられる。最後は車裂きの刑に処され太后との子も処刑された。
関連タグ
道鏡:日本の奈良時代の僧侶・政治家。女性権力者の心のスキマを埋めた事がきっかけで権力を握り天下を乗っ取ろうとした、類まれな巨根の持ち主という共通点がある。ただしこちらの巨根の逸話は、『史記』を通じて日本に伝わった嫪毐伝説から発想を得た後世の人々が創作した捏造だという説がある。