史実
秦の昭襄王の子、安国君の息子として生まれる。父親の安国君は20人以上の子を持っていて母親の身分が低かったことから、趙への人質に出された。いつでも殺されてもいい軽い立場だったので貧乏で苦しんでいた。そんな彼に目をつけた男との出会いによって運命が変わっていく。
商人・呂不韋は、安国君の寵愛を受けていた華陽夫人に子がいないという事実に目をつけ、子楚を華陽夫人の養子にして太子にするよう運動を開始、華陽夫人も子楚を自分の養子にすることによって安国君死後の安泰を得る方針に賛同したため、無事に安国君の太子に指名された。この時に趙姫との間に嬴政(後の始皇帝)が誕生している。
政が誕生した1年後、秦が趙に侵攻、首都の邯鄲を包囲したため趙は子楚を殺害しようとしたが、危うく難を逃れる。妻子は見捨てたような形になったので、この時に始皇帝の怜悧な性格が形成されたとみられる。
昭襄王が死ぬと、安国君が考文王として即位。しかし、僅か1年で没したので子楚が荘襄王として即位。この時、約束に従って呂不韋を丞相として抜擢。
主な事跡としては、東周を滅ぼしたこと。主に魏趙韓を攻略していく。ここで魏の信陵君に苦杯をなめるが、信陵君と王が不仲なのを聞きつけると流言蜚語によって信陵君を失脚させた、ところで病没した。享年35歳、在位わずか3年であった。
キングダムの荘襄王
嬴政の父。名前は子楚。物語開始時点で既に故人。
当初は立場が弱い王族の一人にすぎなかったが、呂不韋の画策により父・孝成王の太子となる。父王が即位三日で死去すると、その跡を継ぎ即位。かねてからの約束通り呂不韋を丞相とした。
呂不韋の操り人形であり、その治世は呂不韋の独裁だった。そのため王騎にも当然自分が仕えるに値する主とは認められず、昭王からの遺言も伝えられなかった。
荘襄王のIFと呂不韋の不運
在位3年で死去しているので治世の評価はできないといったところであるが、無理に評価をするのであれば3年間の治世で、順調に国土を拡張していることが普通以上の力量を持った人物であることが推定できる。昭襄王の外征によって秦の天下統一はほぼ確定していたため(昭襄王が没してから30年で統一)、早世していなければ荘襄王によって天下統一が果たされていただろう。とすれば、始皇帝は2代皇帝となり、胡亥が後を継ぐこともなかったのでひょっとしたら秦は長く続いていたのかも知れない。
ただ、問題があるとすれば呂不韋の扱いである。
即位の経緯上、呂不韋を優遇しないわけにはいかないので秦が大きくなれば、呂不韋の権限も重くなる。史実のように呂氏一族が粛清される、あるいは呂不韋が秦を簒奪するという可能性もあったのだが、呂不韋に恩義を受けている荘襄王には難しかっただろうと思われる。
ところが、呂氏が秦に深く勢力を張る前に荘襄王が亡くなってしまったので、恩義や貸し借りといったものが一切合切消滅してしまい、呂不韋を粛清し易くなってしまったのが不運であった。