今日よりここ南陽を治める剛京である
秦は厳格な法治国家であり今から南陽の民にも同様に秦法に従って生活をしてもらうことになる
法は数多くあり覚えていくのは少しずつからで良い
まずは我ら秦の役人達に従うこと
逆らえば処罰する。"斬首"もあると心得よ!よいな!
それとあの馬鹿げた旗を今すぐ降ろさせろ
なぜ韓の旗が立っておるのだ
さらに*前*城主・龍安の首を取っておらぬと聞いたが真か!?
逃げておるのなら即刻捕えて首をはねよ
反乱の拠り所となる芽は刈り取るのが常識であろうが
概要
韓攻略で南陽城を無血開城した後に新城主として派遣された秦国文官。
だが、『キングダム』において剛京というキャラクター自体の重要性は皆無と言って良い。
恐らく出番は韓攻略のみで留まりそれ以上のキャラクター性を出すことは困難な上、上記の台詞の苛烈さはネタとして見るにも厳しいものがある。
しかし、本記事で重要なのは、そもそも嬴政らが現在進行形で行なっているのが500年間成し遂げられなかった中華統一を果たすための統一戦争であることと、戦争の責任についてにある。
剛京の登場
統一戦争を行なう中で李牧に二度の敗北を喫し後が無い昌平君が思いついた苦肉の策は、韓を2年で攻め落とす総力戦の末、占領した韓の資産や土地,人を使って次なる大戦の踏み台にするというものだった。
しかし今まで同様の侵略戦争を南陽城(なんようじょう)の時点で行なったならば、枯渇している中でやっと絞り出した練兵もまともにできてない兵を無駄死にさせる上に、韓の国民に統一戦争の助力をしてもらおうにも武力による解決であるため、秦国に対する屈辱感、喪失感、復讐心や恐怖心に苛まれ、到底できる訳がない。
とはいえ南陽城の城主が仮に城民に圧政を敷く暴君であるなら、むしろ圧政から解放した英雄として戦後の助力を取り付けやすい可能性はあったのである。
騰は兵士ではない老人も動員し、一時的に30万人近くの兵を南陽城に向けて侵攻させる策を取り、この時の対応は首都・新鄭(しんてい)で主に議論されているがここでは省略する。
新鄭での議論の末、韓国王・王安王(おうあんおう)は全軍を新鄭に移す苦渋の決断をした。
とはいえ、南陽城の城主・龍安(りゅうあん)は新鄭でも言及される通り最も有能な人物であった。
事実上の無血開城宣告を毅然とした態度で認め、己が身第一の文官すら韓の立て直しをはかるために南陽城の要人(龍安の家族も含む)や食糧もまとめて新鄭へと移すように命じる一方、自身は南陽城に残りいざとなったら首を差し出すことを「城主の役目」と言う程の名君であった。
無論、ここまでの人格者に対して、文官も龍安に逃げるように言っているが、なお引き下がらず南陽城に残り、逃げるほどの脚力のない老齢の住人に看取られるつもりだった。
このため騰は龍安を生かす方向で考え、龍安に王冠を付けさせたり南陽城に韓の旗を秦の旗とともに掲げたりして、龍安はもとより城民にも安堵してもらいたかったが、その騰の考えはまだ浅かった。
龍安の王冠や韓の旗の意味する所は、「南陽城は未だ龍安の統治にあり、騰は侵攻はしたもののそれ以上に民に危害を加えず(可能な限り)対等な関係で接する」という意思表示だったと思われるが、確かに侵攻されないことによる恐怖心を払しょくできた城民も居る一方、裏に悪い意図があるはずなので騙されないという反発心や怒りを増長する要因になりかねなかった。
あくまで騰と龍安の間では温厚な関係性を築くような会話が続いたが、その最中に咸陽から派遣された、南陽城の新たな城主となる剛京が現れた。
南陽城に入城した剛京は、最初に秦と韓の旗がどちらも立てられていることに怪訝な表情を見せ、城民の前で概要前の台詞を強い口調で演説した。
上記の台詞の問題点は
- 秦国が厳格な法治国家であることを喧伝した上で、さらに秦の法律を敗戦直後に強要し、城民の不安を煽る
- しかし秦の法律が多いために覚えきれないだろうから秦の役人に従えと強要するが、これは即ち一歩間違えれば城民は奴隷同然の扱いになってもおかしくはないという恐怖にも繋がる
- 逆らえば最悪の場合命にかかわるため、不安と恐怖を増大させる
- 城民にとっては自国の旗である韓の旗を「馬鹿げた旗」と罵倒され、城民の屈辱感や反発感を煽る
- 自分たちの名君である城主を自分たちに指示して斬首させようとすることで、屈辱感や反発感を増大させる
- 当然城民は反発するが、首をはねる行為を「常識」と押しつけがましく言い放つことで、絶望感を抱く他、極端に言えば咸陽から派遣されていることも相まってこれが秦国のやり方であると認識させかねない
総じて露骨な悪代官キャラ、あるいは騰にとって本来は侵略において都合の良い暴君そのものである。
メタ的には登場からたった2ページでこれだけのインパクトを南陽城の民や読者に突き付け、これを見た騰も険しい表情を見せていた。
ちなみに騰は剛京が来た時点で城民に対して何らの要求もしていない。
あくまで城民に暴動や反乱を起こさせないのと、騰の後述の考えから繊細な対処が要求される中で対処に慣れていない秦兵に任せないために、「可能な限り従軍経験の長い秦兵を城内に配置する」ように秦兵に対して要求したのみに留まっていた。
強いて言えば、騰が南陽城に入城した直後に韓の旗を城民の子どもが城に掲げているが、騰はそれを咎めないどころか秦の旗も隣に立ててほしいと要求しており、それが余計に剛京の印象を悪く見せてしまう。
以上からこの話が掲載された第808話を読んだ読者は
- 嬴政の考えと全く違う
- 騰に首をはねられるのでは
- あまりにあからさますぎて昌平君や騰が根回しして演技させているのでは
と感想を述べた人も少なくなかった。
南陽城の未来
続く第809話は剛京が元々は龍安が座っていた椅子に座り、既に処刑場を整えたため斬首を伝えるシーンから始まる。
しかし騰は剛京に「何の罪で処刑するのか。龍安は戦争行為はしていない」と質問する。
剛京は龍安が兵や食糧を新鄭に送ったことが戦争行為に該当すると主張。
騰はこの処刑を不当のものと考えたが、剛京は以下のように反論している。
軍は敵を打ち破ればこと済むが、戦いで手に入れた領土・城の民を治める文官(我ら)の仕事はそこから始まり、それは生半可なものではない
侵略されて恨みを抱かぬ者などいない。他所(よそ)から来た統治者側に必ず反乱の刃を向けてくる者達が出てくる。必ずだ!
そしてその反乱の規模に関わってくるのが*拠り所*となれる者の存在だ。*前*統治者が生きていればそこを元に反乱の火が燃え続けることが往々にしてある。*始め*が重要なのだ
反乱が起きれば鎮める側も鎮められる側も多くの血を流さねばならぬ。戦い終わった地で本来それは*流れなくてよかった*はずの血だ
その虚しい流血を阻止するために、今龍安の血をはねておくのです
前話の暴君ぶりが嘘みたいに真っ当な主張である。
確かに今回は無血開城という決着を見せたが、城民が生きている以上は反乱の可能性は常に考えなければならないし、特に今回は龍安が名君であるために、龍安が反乱の首謀者となる可能性を考慮するのも当然の話である。
また、侵略戦争はあくまで「武将」という戦うために鍛え続け戦歴を重ねた人物が行なうものであるが、作中の武将は基本的に侵略地に派遣するものであるため、統治後にその武将は必ずいないと断言しても良い。
そうなると、戦後の奪った城に派遣される文官や兵は必ずしも反乱への対抗勢力として機能するとは限らないが、それは剛京が考える問題の本質ではない。
剛京の危惧はそもそも流れなくても済む血や復讐の連鎖が生じることであり、それを阻止するために最初に行なうことが、反乱の芽になるであろう龍安の処刑なのである。
ちなみに上記の反論では省略しているが、剛京は「城主の首をはねるのは五百年の戦乱期が作り上げた"常識"だ」とも発言している。
つまり戦乱期の歴史において名君を放置したが故に反乱を許してしまい城を奪い返され無駄な血が流れることもまた、よくある話なのである。
ここで重要なのは、記事上部に書いた「500年間成し遂げられなかった中華統一を果たすための統一戦争」とは、言い換えれば500年という歴史が生み出した常識あるいは固定観念の打破も意味するということである。
騰は武将として、一貫して「南陽城が重要」と作中で説いており、韓攻略の動向として南陽城を奪った後は王都・新鄭に攻撃するのは当然だが、新鄭も南陽城も韓の他の国民も把握している話である。
しかし、韓はこれから秦国によって侵略範囲が拡がり、今後の自分たちがどうなるか分からないという不安な中、法治国家という当時の一般人には到底理解できない概念をもって圧政を強いるならば反発を受け反乱意識が高まるものと、騰はおろか録嗚未も考える。
このため騰が南陽城の統治で考えているのは、秦の法律を一方的に強要するものではなく、秦と韓の人と文化が友好の下に入り混じった"理想郷"に作りかえるというものだった。
"理想郷"というの考えに騰が至った経緯は、六大将軍制度が根底にある。
六大将軍制度の戦争の自由によって当時の将軍たちは、時には六大将軍同士が共闘し城を奪ったり、時には趙三大天や魏火龍などと戦い生き延びたことを誇ったりなど、まさに「黄金の時代」を築きあげることができた。
しかし、その「黄金の時代」、あるいは彼らにとって後世の言葉も借りるなら「春秋戦国時代」とはあくまで武将にとっての理想の時代、または戦争が活発だった時代といった意味合いで史実や『キングダム』作中で用いられることが多い。
一方、上記の剛京の主張のような、統治後の文官や侵略される側の民間人に対しては、戦争によって従軍した人間はもちろんのこと、戦争とは無関係の人間が引っ掻き回され無駄な血が流れる時代だったと結論付けることもできる。
だが、六大将軍が戦争を好きなだけ起こして好きなだけ無駄な血を流させることで、果たして戦乱の世の中を終わらせる(=中華統一を果たす)ことはできるのだろうか?
むしろ侵略しては反乱を起こされ瓦解するといった繰り返しにより剛京が言う「500年の歴史という常識」に至ったのではないだろうか?
その回答については王建王が明言しているが、騰は恐らくそのことを知らないだろうから、騰自身で独自に考えた見解がある。
それは、自由には責任が伴うということであり、その責任とは戦争によって侵略を受けた後の人々の生き方に対する責任である(詳しくは後述)。
作中では非戦闘員に対して虐殺や凌辱をする将軍が登場しているが、武将あるいは強者によって民間人が受けた被害が憎しみの連鎖となって戦いが終わらない状況を生み出していることを踏まえ、その責任を負う必要があると騰は主張する。
しかし、騰の主張は剛京の主張を上回るものではない。
あくまで騰の考え方は旧来の確実なやり方に比べればやはり理想論なのである。
命懸けの覚悟をもって龍安の処刑を継続しようとする剛京に対し、騰も剛京を斬首するために抜剣する。
だが、隆国は「問題は主張の正しさではなく(戦争の自由という特権階級を持ち戦争のために南陽城を案じる騰と、法治国家の一部として南陽城を統治する権限を与えられた咸陽から派遣された剛京の)どちらの身分が上か」と両者を制し、早馬を咸陽に送り判断を仰いだ。
そして後に、秦の旗の隣に韓の旗が立つこととなった。
つまり騰の考える新しい統治法に中華統一後の未来を懸けたのだった。
第810話では剛京は南陽城主の任は解かれなかったため、今後は騰らとともに南安の理想像の構築に邁進していくことだろう。
戦争に対する武将の責任
黒羊の意義の「飛信隊と桓騎軍の対比」では信の「天下の大将軍になる」という夢について、「(あくまで個人的な事情で戦争に参加し、対比の相手である桓騎と桓騎兵のように他人の人生も背負っているといったバックホーンの無い)信に対して責任と呼べるほどの重いものは存在しない上、虐殺や凌辱などの戦争の暗い部分についても触れていないため、総じて信の戦争に対する考え方は戦争に敗れた者や被害を受ける相手に対する無責任さが付きまとう」と解説した。
しかし今回の騰の主張で明らかになったのは、「戦争に敗れた者や被害を受ける相手に対する無責任さ」は、武将全体で考えても当たり前の認識だったことである。
騰の主張した「秦と韓の人と文化が友好の下に入り混じった"理想郷"に作りかえる」という主張について録嗚未は「統一後の世界の姿なんて武将の考える類の話じゃねェ」と反論し、騰はさらに「戦争によって侵略を受けた後の人々の生き方に対する責任」を説くが、これも録嗚未は「王や丞相らが考えるもの」と反論し、上述の通り無責任であることが明らかな李信は「六将ってそこまで考えなくちゃならないのか」と言い、河了貂は「なぜ攻撃力の高い蒙武で韓を侵攻しなかったのか」に対する答えを見出していた(果たして騰の視点を嬴政や昌平君がどこまで理解していたかは不明だが、単に侵攻して余計な血を流すだけでは韓攻略の目的である「韓の土地も人も資源もごっそり奪い、それを他国の侵略にも活用する」という目的を達成できないため、蒙武や楊端和よりは適任と考えたのだろう)。
ちなみに、第809話の読者の感想でも見られたが、騰の主張は奇しくも王騎に託した昭王の遺言に通じる話でもある。
騰の主張は、録嗚未はもとより恐らく隆国も知らず、さらに言えば昭王の遺言を聴いたはずの王騎も知らないと考えて良い。
即ちかつての六大将軍はもとより武将全体として、侵略後の城や民の扱いはその地を治める文官に委ねっきりで、武将は何らの関与もなく無責任に戦っていたということである。
確かに、六大将軍はともかく将軍以下ともなると戦後の統治における発言権は高くないようで、南陽城の統治を任された剛京と六大将軍の騰の立場のどちらが上かを議論するに至ったのは、一般的な将校の立場が低かったためである。
将校の立場が低いということは、奪った城やその民に対して将校が何ら考えないのも、当時としては至って「常識」なのである(言い換えれば騰と剛京の議論は、単に奪った後の城の統治の問題に限らず、武将と文官の関係性に対する問題提起とも解釈できる)。
繰り返すが、武将が戦後に統治させる文官に城の処遇を託したり、剛京の、城主などの反乱の芽の対処の考え方だったりは、中華500年の歴史の中では「常識」である。
しかし、その「常識」によって奪われた城の民の間では憎しみが絶えず、絶えないために反乱の芽を処罰する、あるいは処罰しきれなかったり他の軍によって城を奪い返されたりする、この繰り返しが歴史的に問題となっていた、騰はそう考えたのだ。
だが、中華統一を成し遂げるために、武将は単に戦争に勝利するだけ、文官は反乱の芽を摘むだけでは考えが足りていないことは、かつての六大将軍制度を生き抜いたものの結局中華統一を果たせなかった王騎軍副将・騰のように、長年前線で戦ってきた武将だからこそ見出せたと言って良い。
騰が六大将軍として王騎の背を追う、あるいは本気で中華統一を目指すのなら、その先は「天下の大将軍」しかない。
しかし中華統一を成し遂げると自動的に歴史の塗り替えが生じてしまうのが問題となる。
歴史の塗り替えは、六大将軍によって秦国以外の6国を滅ぼすだけで条件は達成される一方、それだけで中華統一が成せると単純に考えるなら秦国を中心とした経済圏を武力で作ると言っているのと同じであり、それは殆どかつての呂不韋の思想である(武力ではなく貨幣による点が異なる以外は同じ)とともに、嬴政は既に否定しているものであることに注意する必要がある。
このため騰の意思とは無関係に、騰以外の六大将軍にも戦争の責任が生じる(即ち連帯責任である)し、中華統一のために戦国七雄の民間人の生き方や願いも他の六大将軍が汲み取らなければ歴史は繰り返し戦争は終わらず、真の意味での中華統一が果たせないとも言えるのである。
ちなみに、新六大将軍の任命時に騰は昌文君の一般人の虐殺や暴虐、反乱を禁ずる旨に対して「そのような者(虐殺や暴虐を行う六大将軍)が出れば残りの将で必ず抹殺する」と返答したが、上記の戦争の責任から来ていると考えられる。
逆に言えば、王騎も含めた旧六大将軍には、文官への対処以前の問題として戦争に対して無責任であることは、既に説明した通りである。
そしてもっと言ってしまえば、戦場で生まれ戦場で育ったと自称する麃公や戦争孤児である李信は解釈によっては旧六大将軍などの武将が起こした戦争の災禍で生まれ(最悪の想定は、彼らの虐殺や暴虐により親元を離れたために戦場で生きたり奴隷同然の生活を余儀なくされたりした)、新たな戦災を増やそうとしている(していた)武将であると言える。
しかし彼らの過去に対し誰も何らの責任も取ることはできないため、李信は将来の戦災を生み出さないための統一戦争に同調するし、騰は意図していないだろうが結果的に李信に対し南陽城の民との関わり方について発想を促すのである。
余談
始皇帝の後世の評価によると、「それまで各国の王によるおおざっぱな統治が敷かれていた中華に法治主義を持ち込み、官僚主体の中央集権国家を築き上げた点も、非常に革新的ではあったが同時に民衆の不満をためることになった。法治主義に慣れていた秦国は良いとしても、併合された諸国では”法による支配”という概念そのものに理解が及ばず、当時は法律に縛り付けられることに嫌悪感を感じる層が大半であった。法の番人たる地方役人にも、法を手前勝手に悪用する輩が続出したため、秦の法治主義に対するマイナスイメージを助長してしまったことは否めない。」とある。
果たして騰のやり方が作中で正しいかどうかは今後の展開を待つとして、少なくとも剛京が行なおうとしたのは始皇帝の統治の失敗原因そのものである。