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今日よりここ南陽を治める剛京である

秦は厳格な法治国家であり今から南陽の民にも同様に秦法に従って生活をしてもらうことになる

法は数多くあり覚えていくのは少しずつからで良い

まずは我ら秦の役人達に従うこと

逆らえば処罰する。"斬首"もあると心得よ!よいな!


それとあの馬鹿げた旗を今すぐ降ろさせろ

なぜ韓の旗が立っておるのだ


さらに*前*城主・龍安の首を取っておらぬと聞いたが真か!?

逃げておるのなら即刻捕えて首をはねよ

反乱の拠り所となる芽は刈り取るのが常識であろうが



概要編集

韓攻略で南陽城を無血開城した後に新城主として派遣された秦国文官。

開口一番に上記の発言を城民に言い放っている。



キングダム』の作品において、剛京というキャラクター自体の重要性は皆無と言って良い。

恐らく出番は韓攻略のみで留まりそれ以上のキャラクター性を出すことは困難な上、上記の台詞の苛烈さはネタとして見るにも厳しいものがある。

しかし、本記事で重要なのは、そもそも嬴政らが現在進行形で行なっているのが新しい国を建国するための統一戦争であることを再確認するための意義が強い。



剛京登場までの経緯は以下の通り。

統一戦争を行なう最中で李牧二度の敗北を喫したことで後が無い昌平君が思いついた苦肉の策は、韓を2年で攻め落とす総力戦の末、占領した韓の資産や土地,人を使って次なる大戦の踏み台にするというものだった。

しかし今まで同様の侵略戦争を南陽城の時点で行なったならば、練兵もまともにできてない兵を無駄死にさせた上で、韓の国民に統一戦争の助力をしてもらおうにも武力による解決であるため、秦国に対する屈辱感、喪失感、復讐心や恐怖心に苛まれ、到底できる訳がない。

とはいえ南陽城の城主が仮に城民に圧政を敷く暴君であるなら、むしろ圧政から解放した英雄として戦後の助力を取り付けやすい可能性はあったのである。

は兵士ではない老人も動員し、一時的に30万人近くの兵を南陽城に向けて侵攻させる策を取り、この時の対応は首都・新鄭(しんてい)で主に議論されているがここでは省略する。

苦渋の決断の末、韓王安は全軍を新鄭に移すように命じたことで、南陽城は兵がほぼ残らなくなった。

とはいえ、南陽城の城主・龍安(りゅうあん)は新鄭でも言及される通り最も有能な人物であった。

事実上の無血開城宣告を毅然とした態度で認め、己が身第一の文官すら韓の立て直しをはかるために南陽城の要人(龍安の家族も含む)や食糧もまとめて新鄭へと移すように命じる一方、自身は南陽城に残りいざとなったら首を差し出すことを「城主の役目」と言う程の名君であった。

無論、ここまでの人格者に対して、文官も龍安に逃げるように言っているが、なお引き下がらずに南陽城に残り、逃げるほどの脚力のない老齢の住人に看取られるつもりだった。

このため騰は龍安を生かす方向で考え、龍安を生かし王冠を付けさせたり南陽城に韓の旗を秦の旗とともに掲げたりして、龍安はもとより城民にも安堵してもらいたかったが、その騰の考えはまだ浅かった。

龍安の王冠や韓の旗の意味する所は、「南陽城は未だ龍安の統治にあり、騰は侵攻はしたもののそれ以上に民に危害を加えず(可能な限り)対等な関係で接する」という意思表示だったと思われるが、確かに侵攻されないことによる恐怖心を払しょくできた城民も居る一方、裏に悪い意図があるはずなので騙されないという反発心や怒りを増長する要因になりかねなかった。

あくまで騰と龍安の間では温厚な関係性を築くような会話が続いたが、その最中に咸陽から派遣された、南陽城の新たな城主となる剛京が現れた。

南陽城に入城した剛京は、最初に秦と韓の旗がどちらも立てられていることに怪訝な表情を見せ、城民の前で概要前の台詞を強い口調で演説した。



上記の台詞の問題点は

  • 秦国が厳格な法治国家であることを喧伝した上で、さらに秦の法律を敗戦直後に強要する
  • しかし秦の法律が多いために覚えきれないだろうからと秦の役人に従えと強要するが、一歩間違えれば城民は奴隷同然の扱いになってもおかしくはないという不安と恐怖を与える
  • 逆らえば最悪の場合命にかかわるため、不安と恐怖を増大させる
  • 城民にとっては自国の旗である韓の旗を「馬鹿げた旗」と罵倒され、屈辱感や反発感を煽る
  • 自分たちの名君である城主を自分たちに指示して斬首させようとすることで、屈辱感や反発感を増大させる
  • 当然城民は反発するが、首をはねる行為を「常識」と押しつけがましく言い放つことで、絶望感を抱く他、極端に言えば咸陽から派遣されていることも相まってこれが秦国のやり方であると認識させてしまう

総じて露骨な悪代官キャラ、あるいは騰にとって本来は侵略において都合の良い暴君そのものであり、メタ的には登場からたった2ページでこれだけの暴挙を南陽城の民に突き付けた他、これを見た騰も険しい表情を見せていた。

ちなみに騰は剛京が来た時点で城民に対して何らの要求もしていない。

あくまで城民に暴動や反乱を起こさせないのと、騰の考えから繊細な対処が要求される中で対処に慣れていない秦兵に任せないために、「可能な限り従軍経験の長い秦兵を城内に配置する」ように秦兵に対しての要求のみに留まっていた。

強いて言えば、騰が南陽城に入城した直後に韓の旗を南陽城の子どもが城に掲げているが、騰はそれを咎めないどころか秦の旗も隣に立ててほしいと要求した程度であるが、それが余計に剛京の対応が悪く見えてしまう。


また、この話が掲載された第808話を読んだ感想で

嬴政の考えと全く違う

騰に首をはねられるのでは

あまりにあからさますぎて昌平君や騰が根回しして演技させているのでは

と述べた人も少なくなかった。



続く第809話は剛京が元々は龍安が座っていた椅子に座り、既に処刑場を整えたため斬首を伝えるシーンから始まる。

しかし騰は剛京に「何の罪で処刑するのか。龍安は戦争行為はしていない」と質問する。

剛京は龍安が兵や食糧を新鄭に送ったことが戦争行為に該当すると主張。

騰はこの処刑を不当のものと考えたが、剛京は以下のように反論している。


軍は敵を打ち破ればこと済むが、戦いで手に入れた領土・城の民を治める文官(我ら)の仕事はそこから始まり、それは生半可なものではない

侵略されて恨みを抱かぬ者などいない。他所(よそ)から来た統治者側に必ず反乱の刃を向けてくる者達が出てくる。必ずだ!

そしてその反乱の規模に関わってくるのが*拠り所*となれる者の存在だ。*前*統治者が生きていればそこを元に反乱の火が燃え続けることが往々にしてある。*始め*が重要なのだ

反乱が起きれば鎮める側も鎮められる側も多くの血を流さねばならぬ。戦い終わった地で本来それは*流れなくてよかった*はずの血だ

その虚しい流血を阻止するために、今龍安の血をはねておくのです



前話の暴君ぶりが嘘みたいに真っ当な主張である

確かに今回は無血開城という決着を見せたが、城民が生きている以上は反乱の可能性は常に考えなければならないし、特に今回は龍安が名君であるために、龍安が反乱の首謀者となる可能性を考慮するのも当然の話である。

また、侵略戦争はあくまで武将という戦うために鍛え続け戦歴を重ねた人物が行なうものであるが、作中の武将は基本的に侵略地に派遣するものであるため、統治後にその武将は必ずいないと断言しても良い。

そうなると、戦後の奪った城に派遣される文官や兵は必ずしも反乱への対抗勢力として機能するとは限らないし、例え対抗できるとしてもそれは問題の本質ではない。

剛京の危惧はそもそも流れなくても済む血や復讐の連鎖が生じることであり、それを阻止するために最初に行なうことが、反乱の芽になるであろう龍安の処刑なのである。

ちなみに上記の反論では省略しているが、剛京は「城主の首をはねるのは五百年の戦乱期が作り上げた"常識"だ」とも発言している。

つまり戦乱期の歴史において名君を放置したが故に反乱を許してしまい城を奪い返され無駄な血が流れることもまた、よくある話なのだろう。



ここで、本記事で重要なのは「新しい国を建国するための統一戦争であることを再確認するため」と書いたが、これは同時に嬴政が行なおうとしている中華統一が中華五百年という常識の打破であることを考える必要がある。

確かに剛京のやり方は中華五百年の歴史の観点では合理的だが、しかしその結果が現在の中華を生み出してしまったと言えるのではないだろうか?

騰は武将として、一貫して「南陽城が重要」と作中で説いているが、韓攻略の動向として南陽城を奪った後は王都・新鄭に攻撃することは当然だが新鄭も南陽城も、韓の他の人も把握している話である。

しかし、韓はこれから秦国に侵略範囲が拡がる中、これからの自分たちがどうなるか分からないという不安な中、法治国家という当時の一般人には到底理解できない概念をもって圧政を強いるならば反発を受け反乱意識が高まるものと、騰はおろか録嗚未も考える。

このため騰が南陽城の統治で考えているのは、秦の法律を一方的に強要するものではなく、秦と韓の人と文化が友好の下に入り混じった"理想郷"に作りかえるというものだった。


この考えに騰が至った経緯としては、六大将軍制度が根底にある。

六大将軍制度の戦争の自由によって、時には六大将軍同士が共闘して、時には趙三大天や魏火龍などと戦うことができた「黄金の時代」を築きあげることができた。

しかし、その「黄金の時代」、あるいは彼らにとって後世の言葉も借りるなら春秋戦国時代とはあくまで武将にとっての理想の時代、または戦争が活発だった時代といった意味合いで史実や『キングダム』作中で用いられることが多い一方、上記の剛京の主張のような、統治後の文官や侵略される側の民間人に対しては、単に無駄な血が流れるだけの時代、あるいは戦争によって戦争とは無関係の人間が引っ掻き回され無駄な血が流れる時代だったと結論付けることもできる。

だが、戦争を好きなだけ起こして好きなだけ無駄な血を流させることで、果たして戦乱の世の中を終わらせる(=中華統一を果たす)ことはできるのだろうか?

その回答については王建王が明言しているが、騰は恐らくそのことを知らないだろうから、騰自身で独自に考えた主張がある。

それは、自由には責任が伴うということであり、戦争によって侵略を受けた後の人々の生き方に対する責任である。

作中では非戦闘員に対して虐殺や凌辱をする将軍が登場しているが、武将あるいは強者によって民間人が受けた被害が憎しみの連鎖となって戦いが終わらない状況を生み出していることを踏まえ、その責任を負う必要があると騰は主張する。

ちなみに、第809話の読者の感想でも見られたが、この主張は奇しくも王騎に託した昭王の遺言に通じる話でもある。

ただし録嗚未は上記の騰の考え方を知らなかった(隆国も恐らく知らない)ことから、王騎や騰は侵略後の城の扱いについて今まではそこまでこだわっていなかったものと考えられる。

今までこだわっていなかったということは、王騎ですら侵略後の城や民についての扱いは赴任後の文官任せであり、その扱いに対し王騎は干渉することはもとより恐らく深く考えてもいなかったのだろう。

しかし、騰が六大将軍として王騎の背を追うのなら、騰が目指さなければならないのは中華統一を成し遂げる「天下の大将軍」しかない

その中華統一を成し遂げるために単に戦争に勝利し武将を倒すだけでは考えが足りていないことは、かつての六大将軍制度を生き抜いたものの結局中華統一を果たせなかった王騎軍副将・騰にとって当然承知の上である。

このため騰が王騎を超えるためには、武将の立場以外の考え方が必要だが、その結論が戦争の自由に対する戦争の責任であり、武将以外の人々の生き方に対しての責任なのである。



しかし、騰の主張は剛京の主張を上回るものではない。

あくまで騰の考え方は旧来の確実なやり方に比べればやはり理想論なのである。

命懸けの覚悟をもって龍安の処刑を継続しようとする剛京に対し、騰も剛京を斬首するために罰剣する。

だが、隆国は「問題は主張の正しさではなく(戦争の自由という特権階級を持ち戦争のために南陽城を案じる騰と、法治国家の一部として南陽城を統治する権限を与えられた咸陽から派遣された剛京の)どちらの身分が上か」と両者を制し、早馬を咸陽に送り判断を仰いだ。

そして後に、秦の旗の隣に韓の旗が立つこととなった。

つまり騰の考える新しい統治法に中華統一後の未来を懸けたのだった



余談だが、始皇帝の後世の評価によると、「それまで各国の王によるおおざっぱな統治が敷かれていた中華に法治主義を持ち込み、官僚主体の中央集権国家を築き上げた点も、非常に革新的ではあったが同時に民衆の不満をためることになった。法治主義に慣れていた秦国は良いとしても、併合された諸国では”法による支配”という概念そのものに理解が及ばず、当時は法律に縛り付けられることに嫌悪感を感じる層が大半であった。法の番人たる地方役人にも、法を手前勝手に悪用する輩が続出したため、秦の法治主義に対するマイナスイメージを助長してしまったことは否めない。」とある。

果たして騰のやり方が作中で正しいかどうかは今後の展開を待つとして、少なくとも剛京が行なおうとしたのは始皇帝の統治の失敗原因そのものだったことは疑う余地もないだろう。



関連タグ編集

キングダム 中華統一編 韓攻略

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