穆公とは
春秋時代の中国の諸侯の諡号(死後に奉る生前の事績への評価に基づく名)の一つ。
諡号が穆公とされた諸侯には嬴任好(秦)、姫蘭(鄭)、姫顕(魯)、姫武(曹)、嬀款(陳)、姫遫(衛)、子和(宋)、姫虎(召)、姜新臣(許)がいるが、秦の穆公が有名。
秦の穆公
春秋時代の人、嬴任好。秦の第9代目伯爵で、兄2人の跡を継いで秦公(在位期間B.C.659年~B.C.621年)となる。
繆公とも。
秦には中国化したチベット族(西戎)が多く住み、中原諸国から夷狄視されていたが、嬴任好が秦公となってからは百里奚らの賢人を任用して国政を整え、富国強兵に努めた。
『孟子』の趙岐による注では春秋五覇に挙げられているが、『荀子』王覇篇では外されている。
来歴
B.C.655年、晋の献公の娘を妃として迎える(穆姫)。穆姫の侍臣として付いてきた百里奚は辺鄙な秦へ行くのを嫌がって途中で逃亡するが、楚で捕まって奴隷となる。穆公は百里奚を牝羊の皮5枚で買い戻し、宰相とする。百里奚の推薦で蹇叔を上大夫として迎える。
B.C.651年、晋の後継者争いに際し、同姓の隣国・梁に亡命していた姫夷吾を晋に入れて恵公とした。晋の恵公は秦へ領土の割譲を約束していたが約束を破った。
B.C.650年、丕鄭が恵公に誅殺され、丕鄭の子の丕豹は秦に亡命し穆公に仕えた。
B.C.647年、晋は不作で食糧不足となる。晋の恵公から支援を求められ、穆公は快くこれに応じた。
B.C.646年、今度は秦が不作となり穆公が恵公に支援を求めたが、晋の恵公は好機と捉えて秦に攻め込んできた。
B.C.645年、秦軍と晋軍が韓原(現在の陝西省韓城市)で激突し、秦軍が圧勝し晋の恵公は捕虜として捕らえられた。恵公の姉である穆姫が命乞いしたため助命するが、太子の姫圉を人質に取る。
B.C.641年、梁を滅ぼした。
B.C.637年、晋の恵公が死に、人質となっていた太子圉が秦から逃げ、晋公の座に就いた(懐公)。穆公は大いに怒り、楚にいた晋の公子・姫重耳を晋公に就けることにする。晋でも評判の悪い懐公に味方する者は少なく、重耳が晋公となる(文公)。
B.C.632年、晋軍が城濮の地で楚軍を破り(城濮の戦い)、文公は中原の覇者となる。春秋五覇の筆頭に数えられる存在感を示したが、既に老年だった。
B.C.628年、晋の文公が死去。息子の姫驩が晋の襄公となる。秦に内応しようとする者があり、穆公は出兵するべきか百里奚と蹇叔に諮った。百里奚らはやめるよう進言するが、穆公は出兵を決める。
B.C.627年、穆公は孟明視(百里奚の子)に晋を攻めさせる。晋の襄公自らが出陣し、殽の地で秦軍を破った(殽の戦い)。孟明視ら秦の三将軍が捕虜となり襄公に処刑されそうになるが、襄公の母(穆公の娘)が彼らを助けようと思い「穆公は三人を恨むこと骨髄に徹しています(恨み骨髄に徹す)。三人を秦に帰し思う存分煮殺させてください」と言い、襄公はそれに従い秦に帰させた。しかし穆公は三人を自ら出迎え「わたしが悪かった」と泣いて謝った。
B.C.626年、西戎の王に仕えていた由余が秦へ視察に来る。由余が賢人なのを知った穆公は勧誘して宰相とする。
B.C.624年、孟明視らに晋を攻めさせる。孟明視らは黄河を渡ると乗ってきた船を焼き、不退転の決意で戦い、大勝した。
B.C.623年、由余の謀を用いて西戎の王を征伐し、その12国を加え領土を拡げた。
B.C.621年、死去。主立った家臣177名が殉死し、秦の国力は大きく低下した。