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えいまたはまもる

周初から戦国時代にかけて河南省の一部を支配した諸侯国(えい)。または日本の男性の名前(まもる)。
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曖昧さ回避編集

えい編集


まもる編集


衛国編集

紀元前11世紀から紀元前209年まで45代続いた諸侯国で、に滅ぼされた。


紀元前1051年、周の武王文王の次男)がに対して革命を起こす。殷の紂王帝辛)は牧野の戦いに敗れ首都・朝歌(河南省)に撤退し、焼身自殺した。

管叔鮮(文王の三男)がに封ぜられて諸侯となり、殷の遺民を統治する任を与えられた。


革命後2年で崩御した武王の後継には武王の子・成王が選ばれ、周公旦(文王の四男)が摂政となった。管叔鮮は蔡叔度(文王の五男)、霍叔処(文王の八男)と共に反乱(三監の乱)を起こして3年に亘り戦うが破れ、康叔(文王の九男)が衛君に封じられて二分された殷の遺民の一方を与えられ、衛国(都は朝歌)とした(もう半分は紂王の兄の微子啓に与えられ国となった)。


紀元前771年、周の幽王蛮族犬戎に殺されると、衛の武公が犬戎を討伐し、周から公爵に叙された。


紀元前660年、蛮族・翟()に滅ぼされるが、桓公の助力により、文公が衛君となって楚丘を新たな都として国を復活した。


戦国時代に入るとの半属国状態となり、領土は次第に縮小していった。


紀元前346年、「公」の爵号を引き下げて「候」に貶号。

紀元前320年、「候」の爵号を引き下げて「君」と称し、濮陽を領有するだけとなる。

紀元前252年、朝貢のため魏を訪れた懐君が殺され、弟の元君が衛君に就けられ、魏の傀儡国となる。

紀元前238年、秦が魏の東部地方を占領した際に併合され事実上滅亡するが、名目上は存続していた。

紀元前209年、衛君角が秦の二世皇帝に廃されて滅んだ。

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