暴君の象徴
素手で猛獣と格闘してしかも打ち負かすほどの武術と、臣下の諌言を逆に論破してしまうほどの文才、知力を兼ね備えた名君だったが、次第に政治に興味を失くし悪政を敷く暴君と化した。
重税を課すだけに飽き足らず寵姫の妲己とともに肉を天井から吊るし林に見立て、酒を溜めて池に見立て、その上で女性をはべらかしながら、ほしいままにこれらを飲み食いしたエピソードは「酒池肉林」の語源となるほどの奢侈、残酷な刑罰を笑いながら楽しんだという。それを見かねた一族の中から讒言する者が現れたが、一人は謀殺を恐れ発狂して奴隷となり、もう一人は心臓を抉り出されて殺されたなど、暴君エピソードには事欠かない。
その後西岐で挙兵した周の武王による反乱「牧野の戦い」で敗北。王宮に火を放ち自害した。
夏王朝の最後の王、桀王と並び馬鹿王の典型例とされており、「夏桀殷紂」などと3000年近くに渡り暴君の代名詞となっている。
再評価
しかし、時代が経つに連れて考古学的研究から史書に記されている暴君像は後世の創作であるという見方が強まっている。
この事は春秋戦国の頃から指摘されている事であり、孔子の弟子である子貢は論語の中で「彼の悪行は言うほどではなかったが、悪をなしたために悪評全てが彼の責となったのだ」と疑問を呈している。
紂王の代になってからは、それまでに行われていた生贄の儀式も撤廃したとする甲骨文字の文献が発見されている。その理由は「殺すより働かせたほうがいい」との考えがあったといわれており、残虐を好んだという伝承からはかけ離れた政治決定を行っている。
その他にも、紂王は当時軍事訓練と領土視察の性格を有していた狩猟、王権の正当化に必要不可欠な祭祀を非常に精力的に行う王であり、遊ぶ暇などなかった。殷周革命から時間が経っていない武王の孫康王によると、「殷が滅んだのは百官が酒にかまけて軍を失ったためである」とし、紂王一人に責任があるという認識を周が有していなかったことが金文(青銅器に鋳込んだ文章)でわかっている。むしろ、軍事国家的性格が強かった初期の周と比べ、宗教色が強かった殷は末期でも祭祀に欠かせない酒を大量に用いていたほど、真面目に政務に取り組んでいたともとれる文章である。
また、妲己、もしくは彼女に匹敵するであろう女性の存在が未だに発見されていない事、彼のその名も当時の慣習からすれば考えられない名であるため、これも他の暴君伝説同様創作であるという説が有力になりつつある。
そうした精力的な王が支配していた王朝が突然滅亡した理由は謎が多い。しかし、治世後半に起こった有力諸侯の反乱や、甲骨文字と金文の数が少なくなることから中央集権化を性急に進めたために諸侯に憎まれ、統制力を失っている隙を周に突かれて王都を強襲され滅亡したという有力な説がある。
実際の所、彼が暴君であったとする証拠は後の世に作られた歴史的資料だけである。
創作物
紂王(封神演義)参照