概要
三国志において赤壁の戦い・夷陵の戦いと並んで時代の流れを決定づけた重要な戦いとして知られる。
狭義においては戦役の終盤で官渡で行われた戦闘のみを指すが、広義では曹操と袁紹の一連の抗争を含む大戦役の事を指す。
背景
かつて曹操と袁紹は同盟を組んでいた。それによって曹操は呂布や袁術などを、袁紹は公孫瓚を滅ぼすことに成功した。
だが、両者の間に亀裂が生じて同盟は破綻し、本格的に対立するようになった。
前哨戦・白馬の戦い
西暦200年に袁紹は、「献帝(漢の皇帝)を手中に収める曹操を逆賊として征伐する」ことを大義名分に曹操に対して大軍で大攻勢を仕掛けた。
一方、曹操も「献帝(を奉じている自分)に対して反逆する袁紹を迎え撃つ」という大義を掲げて反撃した。
この時、曹操の配下には関羽がいた。関羽は劉備の重臣(三国志演義では義弟という設定)で忠臣だったが、事情があって劉備と離れ離れになった祭に曹操に降伏していた。そして関羽は、曹操に降伏を認められた恩に報いるべく白馬の戦いにて袁紹軍の猛将・顔良を討ち取った。
その後、劉備が袁紹の元に身を寄せていることを知った関羽は、曹操の許可を得た上で劉備の元に帰還した。
その後、袁紹は文醜に曹操軍を攻撃させるが、反撃に遭った文醜は戦死した(三国志演義では、曹操の元を離れる前の関羽が討ち取った設定になっている)。
官渡砦攻防戦
汝南において劉辟が曹操に反乱を起こしたことを知った袁紹は、劉備にそれを支援させる。だが、曹操は重臣・曹仁の活躍によってこの状況を打開した。しかし、袁紹は再び劉備に汝南侵攻を命じ、劉備は龔都と共に蔡陽(曹操側の武将)を討ち取った。
曹操は軍師・荀攸の助言に従い史渙と徐晃に袁紹軍の輸送隊を撃破することに成功したが、曹操軍の兵糧は次第に減っていった。
烏巣急襲
袁紹軍に属する許攸は、袁紹に許都(漢の首都で、曹操の本拠地)を攻撃するように提案したが聞き入れられなかった。さらに許攸の家族が罪を犯して同僚の審配によって逮捕されたことにより、許攸は袁紹を見限って曹操に投降した。
そして許攸は、曹操に烏巣(袁紹軍の兵糧があった場所で、淳于瓊という武将が防衛していた)の守備が薄いことを伝え、曹操軍は烏巣を奇襲。曹操側の楽進は淳于瓊を討ち取った。
配下が寝返り、兵糧を損失した袁紹は本拠地・河北に撤退し、この戦いは曹操軍が勝利した。
その後
翌年、曹操軍と袁紹軍は倉亭の戦いで再び激突し、曹操軍が再び勝利した。さらにその翌年に袁紹が病死し、彼の子供たちは仲違いし、その隙を曹操につけ込まれたことにより、曹操は華北を平定した。