生涯
生年不詳。若い頃、伯父の縁故で県長(一万戸以下の土地を治める行政官)をしていた。
初平元(190)年、親族に当たる曹操が起こした反董卓の義兵に呼応し、夏侯惇や夏侯淵らと共に武将として仕えた。
曹操が徐栄に敗れて退却した際に自分の馬を譲ろうとした時に曹操が断ると、「天下に洪なかるべきも、公なかるべからず(天下に曹洪がいなくても良いが、曹操様がいないのは断じてなりません)」と愛馬を差し出して逃がした。徒歩で合流し、曹操を船に乗せて自陣まで送り届ける快挙を成し遂げて名をとどろかせた。
呂布が謀反を起こした興平元(194)年には敵軍に先んじて穀倉地帯や兵糧庫がある地域を占領して曹操軍を優位に立たせ、10の県を攻め落として奪還する功績を上げたため、鷹揚校尉、揚武中郎将と短期間にとんとん拍子の出世をした。
しかし、この頃から素行の悪さが目立ち始め、法を破った食客が満寵に処刑されたりしている。
建安5(200)年、官渡の戦いでは後方支援に徹して曹操の勝利を支え、張郃・高覧らを降伏させた時も立ち会ったと言う。荊州平定でも活躍し、夏侯惇・夏侯淵・曹仁らと古参として恥じぬ武者振りであった。
建安22(217)年の漢中攻防戦では、張飛・馬超・呉蘭と言った蜀の猛将がオールスターで猛攻撃を仕掛けてきた際は甥の曹休と共に戦い、彼らを追い返した。
黄初元(220)年、曹丕が即位したときに衛将軍となった。その後、驃騎将軍に昇進し野王侯に封じられるなど、位人臣を極めたが都陽侯に国替えを命じられた。
曹丕に嫌われていた曹洪(後述する)は、配下の不祥事を理由に降格処分と財産差し押さえの厳刑に処され死罪にもなりかかってしまうが、甄夫人の後釜であった郭皇后に対し、曹丕の母が半ば脅迫じみた泣き落としをしたため、死罪は免れた。その際、曹洪は謙った内容の陳謝をしている。
黄初7(226)年、曹叡が即位した時は罪を許されて特進し、驃騎将軍へと返り咲く。それから6年後の太和6(232)年、曹洪は逝去し、恭侯と諡された。
人柄・逸話
・演義では血気盛んで誘い出されて負ける事が多い猪武者として描かれる。ただ、油断して馬超に負けた時はすかさず気合いを入れなおして曹操を助けて償った事で褒められるなど正直で真っすぐな性格。(史実では関係が悪かった)曹丕とは演義では仲が良く、献帝を恫喝して玉璽を奪う悪行(史実では禅譲だが、演義では蛮行として扱われている)を助長するなど、善行も悪事もスケールが小さい。ただし財貨に貪欲で女好きな面は省かれている点だけはマシと言えなくもない。
・曹操が資産調査をした時、「閣下の資産は、曹洪様と同じです」と部下が報告した所、「あいつはワシより金持ちだぞ」と曹操が首を振るくらいに金儲けがうまい資産家であった。このため早い段階から警戒対象になっており夏侯惇・夏侯淵・曹仁ほど重く用いられず早くから一線を退いた。
・曹丕からもマークされており、絹を百匹貸して欲しいと言われた時も嫌だとドケチオーラ全開の吝嗇さを発揮して断った。このことを根に持たれ皇帝即位した際に意地悪な仕返しをされた。
・お金も好きだが女の子も大好きだった。侍女に薄着をさせて大宴会に侍らせて悦に入ったため、楊阜に「女性の裸を公にするのは不道徳」と叱られてしまった。また、曹真の太っているのを笑うなど素行が悪かった。さらに食客(居候)や側近にも素行不良のならず者が多かった。