概要
豫州潁川郡の人。
当初は霊帝が西園八校尉(西園とは、皇帝直属の部隊「西園軍」のこと)を設置した時、その一員(佐軍校尉または右校尉)に任じられ、後に袁紹の配下となる。
袁紹が曹操と敵対して官渡で両軍が対峙(官渡の戦い)した時は、淳于瓊は穀物輸送の任に就き、本隊から離れて烏巣に眭元進、韓莒子・呂威璜・趙叡ら将と一万の兵とともに駐留した。しかし、袁紹軍の許攸が曹操に帰順して烏巣に兵糧が集まっていることを暴露し、防御も弱いと聞いた曹操は許攸の進言を受け入れ、五千の兵を自ら率いて烏巣を奇襲。淳于瓊は必死に防衛して袁紹にも援軍を要請したが、結局は持ち堪えれず各将とともに討ち死にし、兵糧はすべて焼き討ちされた。これによって袁紹軍は継戦は不可能となり、敗走してしまう。
武帝紀
こちらの記述では烏巣で敗北したが戦死する事なく、鼻を削がれ捕虜となる。
曹操の前に引き出された折、彼から何故敗北してこの有様になったのかという内容を問われるも、悪びれる事無く堂々と「勝敗は天が決するもの。何を問う必要があろうや」と答えたので、曹操は感心して生かして部下にしようと思うも、淳于瓊が自分を恨む事を怖れた許攸が「毎朝、鏡を見る事で恨みを忘れないでしょう」と曹操に讒言した為に処刑されたという。
三国志演義
『三国志演義』では、勇猛な性格とされているが、酒好きでもある設定になっている。
序盤から登場し、何進暗殺後に張譲達によって連れ出された少帝と陳留王(のちの献帝)が保護された時に王允らと出迎えた。
その後は官渡の戦いで登場し、正史と同じく烏巣に駐屯していたが、酒好きのせいで将兵達とともに酒宴に耽ており、酔いつぶれて寝ていたところに曹操が奇襲を仕掛けたため呆気なく捕虜となる。淳于瓊は曹操によって見せしめのために耳・鼻・手指を斬り落とされ、馬に括り付けられて袁紹の下に送られる。
無様に帰還した淳于瓊は、烏巣の陥落は自身の飲酒の所為だと部下が報告したため、激怒した袁紹に斬首された。
ちなみに、長坂の戦いで淳于導(じゅんう どう)という武将(演義のみの架空人物)が登場するが、関係は不明。戦いで糜竺を生け捕りにして連行していたが、現れた趙雲に討たれる。