概要
字は不明。
出身地も定かではないが涼州と言われる。
長らく涼州に居たために羌族の戦法を熟知しており、またその私兵も同様で勇猛果敢な者達であった。
当初は冀州牧である韓馥の配下であったが、韓馥が公孫瓚・袁紹から圧力を受けている時期に彼を裏切り、後に袁紹の陣営となる。
190年には袁紹に反逆した南匈奴の単于於夫羅を撃破し、その対騎馬戦能力を示す。
192年の公孫瓚を袁紹が迎え撃った界橋の戦いでは盾を持つ800名の兵と左右に計1000名の弩弓兵を持って、数万からなる袁紹軍の先鋒となる。
麹義の軍勢が少数と見た公孫瓚はこれを蹴散らすべく騎兵を突撃させた。それに対して麹義の兵は盾の陰で伏せて相手が近づくのを待ち、50歩程の距離になるや一斉に立ち上がり、砂塵を起こし、大声をあげて騎兵と激突し、左右から放たれる矢も効果的で、公孫瓚軍先鋒騎兵を撃ち崩したばかりか、その勢いで厳綱を捕虜とし、更には公孫瓚本陣をも攻撃し、全面撤退に追い込んだと言われる。また、この時に追撃戦で手薄になった後方の袁紹本陣が公孫瓚軍の攻撃を受け、袁紹も危うい場面があったが、引き返した麹義はその救出も行うなどまさに八面六臂の活躍を見せた。
193年、公孫瓚に殺された幽州牧劉虞の遺児劉和を袁紹の命で援軍として支援し、195年には幽州の鮑丘で公孫瓚を破り、彼を本拠地の易京に追い詰めた。しかし、易京で守備に徹した公孫瓚には攻めあぐね、一年余りの攻囲戦の後に兵糧不足から撤退するも、その機を逃さずに打って出た公孫瓚の追撃で大敗を喫した。
対公孫瓚戦で戦功を重ね、袁紹軍随一の武将と言っても良い成果をあげた麹義であるが、それを鼻にかけ、傲慢な行為が目に付くようになった事から196~198年の間に袁紹により殺害された。彼の部下達は逃亡し袁紹に抵抗したが、結局は袁紹に殲滅されるか、その軍に吸収された。公孫瓚には彼等からの援助要請があったが、見殺しにしたという。
戦術
騎馬突撃は、馬に人が乗る事で己が身の丈の倍ほどはある連中が集団で突撃してくる姿は、特に歩兵には恐怖であり、馬に蹴り倒されたくない故に逃げ出したり、隊形を崩してしまう事で戦線が崩壊してしまうこともある強力な戦法であった。
だが、その実は馬は臆病な生き物であり、大きな音に驚いたり、立っている人に自ら当たりに行く事は無く避けていくものであり、騎馬突撃の効果は歩兵の騎馬に対する幻想的な恐怖から成り立つ面も多いものであった。
界橋では麹義は二千にも足りない兵で先鋒を命じられた為に袁紹に囮とされたという説もあるが、恐らくこれらの兵は麹義の私兵であり、彼としては騎馬との戦いに未熟な連中を配下に組み込まれてパニックを起こされ戦線崩壊の危険を冒すよりは、騎馬の突撃にも動じることなく隊形を保ってその効果を無効にする私兵達だけの方が都合が良かったと思われる。
また激突の際に大声を出させたのも、前述した馬の臆病さを利用するものであったと思われる。
三国志演義
界橋の戦いで先鋒を務めたところは同じだが、厳綱を自ら討ち取る史実以上の活躍もするも、それも趙雲の引き立て役の効果を上げるものに過ぎず、数合打ち合う間もなく趙雲に打ち取られ物語からあっさりと退場してしまう。