概要
字は元凱。魏、晋の将軍。(生没 222~284)。日本では、『どよ』とも読まれる。
蜀平定まで
祖父の杜畿は魏に仕え、文帝の乗る御召船を建造したが、試運転時に転覆してしまった。この時、諸葛誕も同乗しており、溺死しかけている。諸葛誕は「杜侯(杜畿)を先に助けてくれ」と言ったが、杜畿はその船に最後まで残り、船と運命をともにした。
父の杜恕は有能であったが司馬懿との折り合いが悪く、幽閉死させられた。
そのため杜預も不遇の時代を送っていた。しかし司馬昭が司馬家の当主になると、元々彼の妹婿だったので位を頂き、中央進出ができた。
鍾会がクーデターを起こした際は、周囲の同僚たちは軒並み罰せされたが彼だけは計画に関与してないことを証明したので処罰が免れた。
また、杜預は鄧艾を尊敬していたので、鄧艾を殺害した衛瓘・田続らを公の場で厳しく非難した。
蜀平定後は賈充と共に律の制定に助力したり、異民族の侵攻を食い止めるなど名将ぶりを大いに発揮した。
呉征伐
278年に羊祜の後を継いで荊州の太守に任命されると呉を討つべく上奏し、すぐさま駐屯している軍の調練を開始した。太守が交代されたということで呉軍は名将・張政を派遣して来襲したが杜預はこれを撃退した。張政は要害の地でありながら碌な備えもせずに攻めて敗北したことを恥じており、このことを皇帝・孫皓に報告しなかった。杜預は離間策を用いて捕虜を返したところ孫皓は張政を召還し、別の将に後任させた。このため、後に晋が大軍を送ると呉は簡単に浮き足立った。
武帝(司馬炎)も常々呉を攻めようと思案していたが杜預は二度上奏し、張華の後押しもあってかついに決行された。
太康元年正月。杜預は王濬らとともに呉へ侵攻した。連戦連勝で晋軍はついに建業目前まで迫った。そのとき軍議では「気候は温暖になり、長雨の降る時期でもありますから、疫病がはやるでしょう。冬を待って、再び攻め入るべきです」との意見が出された。しかし、杜預はこのように言った。
「楽毅は済水の一戦で燕を斉に比肩させた。今、兵威は振興し、譬えるなら竹を割くようなものだ(譬えるに破竹の如し)。数節(竹の節)も刀を入れれば、後は手を使うだけでよい。」
この逸話が後に、「破竹の勢い」の故事成語である。
その後に晋は、彼の言葉通り「破竹の勢い」で侵攻した為、孫皓は降伏。天下統一が成った。
人物
以上のように武功に誉れ高い人物であるが実際は恐ろしいぐらいの運動オンチである。(どれほど酷いかというと馬もうまく乗れなければ弓もことごとく的を外していたくらい)そのため彼に軍事を任されると、居ながらにして将卒を率いたという。
また『晋書』にはこんな話がある。
江陵の守備側が、杜預の頸に瘤(こぶ)があったことから、犬の頸に瘤に見立てた瓢をくくりつけたり、木の瘤を「杜預頸」と称してからかった。
杜預は城を攻め落とすと、その住民を皆殺しにしたという。
また『春秋左氏伝』を好んでおり、常にそれを持ち歩いていたので『左伝癖』(左氏伝オタク)と自称していた。またその書物の注釈も行っていたりしていた。
その注釈の集大成が『春秋経伝集解(通称、杜注)』と呼ばれる。この『杜注』の影響は強く、現在の『春秋左氏伝』と呼ばれる書物は、この『杜注』と、後漢の文官服虔の注釈である『服注』が基礎となっている。
また、功績をあげて歴史に名を残すことに執着しており、このことについて同僚と争いになりかけることもあったが、元来の人柄か深く恨まれることは無かった。
呉の降伏後は、荊州の統治を任された。農業、軍事、教育、治水などに功を上げ、荊州の住民は杜預を「杜父」と慕ったという。
荊州の統治を終え、首都に帰る途中で病にかかり、死去した。現在の中国、鄧州市あたりとされる。
成と諡される。
唐の詩人である杜甫は杜預の子孫を自称している。