曖昧さ回避
概要
詳しい出自は不明だが、中山国に仕えていたとも言われている。魏に移った後、魏の昭王に仕えるが、燕の昭王が人材を求めていると聞くと、昭王に頼んで燕への使者になり、そのまま燕で仕官した。昭王は楽毅の才能に着目し、彼を上卿に次ぐ亜卿に任じた。
燕の昭王は、当時秦と並ぶ戦国最強国の斉に滅ぼされかけたことで強い恨みを抱いており、その恨みを晴らしたいと思っていたため、楽毅は昭王に他国と連合して斉に当たるべしと説き、楽毅は秦・魏・趙・韓・楚を引き入れた
紀元前284年、燕は楽毅を上将軍に任じ、大軍を発し、韓・魏・趙・楚の連合軍に合流し、楽毅は連合軍の総大将として、五国連合軍(合従軍)の総指揮を執り斉国へ侵攻し、済西で斉軍を打ち破ると、その後、楽毅は斉の首都臨淄に迫り、湣王は莒へ逃げたため、臨淄を占領した。
続いて、楽毅は破竹の勢いで次々と斉の都市を落とし、「楽毅来る」というだけの門を開いた城も相次ぎ、楽毅は即墨と莒の二つを除くすべての都市を落とした。さらに伝来の宝器を奪取し、全て燕に送ると昭王は大いに喜び、直々に斉まで来て楽毅を褒賞し、「昌国君」に封じた。
しかし、紀元前279年、戦いの最中に昭王が死に、太子の恵王が即位した。恵王は楽毅の事を良く思っておらず、そこに付け込んだ斉将の田単は反間の計を用いた。燕に密偵を潜り込ませ、「即墨と莒は今すぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、斉の人民を手なずけて自ら斉王になる望みがあるからだ」と流言を流し、恵王の耳に入ると恵王はこれを信じ、楽毅を解任してしまう。
このまま国へ帰れば誅殺されると思った楽毅は、趙へ亡命した。楽毅が解任されると田単は反攻に転じ、楽毅が奪った都市を全て取り返した。
恵王は、ここで楽毅が恨みを晴らさんと攻め込んでは大変と、代わりの将軍を送った事の言い訳と楽毅が亡命した事を責める書を送った。楽毅はこれに「燕の恵王に報ずるの書」と呼ばれる書で答え、その中で先王への溢れる敬愛と忠誠の情を記し、亡命したのは帰って讒言で罪人にされることで、その自分を重用した先王の名を辱めることを恐れたからだと書した。恵王はこの書によって誤解を解き、楽毅の息子楽間を昌国君に封じ、楽毅との和解の証拠とした。
楽毅はその後趙と燕との両方で客卿とされ、両国を行き来し、最後は趙で没した。
キングダム
軍神と称される燕の伝説的大将軍。故人。
滅亡寸前であった燕国を復興させ、大国の斉を六国連合の合従軍で滅亡寸前まで追い込んだ。