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概要編集

兗州山陽郡高平県の人。

前漢の景帝の第4子の魯恭王劉余の第6子の郁桹侯劉驕の子孫という由緒ある血筋。継室に蔡夫人。子に劉琦劉琮がいる。

若き日に太学で儒学を勉強し、党錮の禁において清流派の党人の中で「八及」と称されており、熹平5年(176年)に霊帝からの追及を受ける身となった張倹の逃亡を助けたために自らも追われる身となった。黄巾の乱により党錮の禁が解除された中平元年(184年)に大将軍の何進に招かれ、後に北軍中候に転任した。


霊帝死後、詔勅によって荊州刺史に任じられる。しかし、荊州に赴くと長江南岸は土豪が割拠していたため、州治である漢寿に赴かず北部の宜城に入って不穏分子を鎮圧し、荊州北部を支配下に治めた。さらに州治を漢寿から襄陽に移している。


初平元年(190年)、各地で反董卓の義兵が挙げられると、劉表もこれに加わった。


初平3年(192年)、袁術の意を受けた孫堅が荊州に侵攻。劉表は黄祖に命じてこれを防ぎ、袁紹と同盟して対抗した。黄祖は苦戦したが孫堅を戦死させ、荊州を守り抜いた。


初平4年(193年)、李傕らが実権を掌握する朝廷から、仮節・鎮南将軍・荊州牧に任じられ、また成武侯に封じられた。同年、袁術と曹操が争うと、曹操を支援し袁術の糧道を断った。


張済が食料不足により荊州の穣城を攻めたが戦死。劉表は張済の残軍を引き継いだ甥の張繍に「張済は困窮したから荊州に来たのに、私が礼を尽くさなかったから戦争をすることになってしまった。これは私の本意ではない」と言って彼らを受け入れた。張繍軍はこの言葉を聞いて劉表に服従した。


その後、曹操と袁紹は敵対するようになる。劉表は引き続き袁紹に与して、張繍と同盟を結び、曹操と戦った。


建安3年(198年)、曹操が張繍を攻めると、劉表は援軍を送って曹操軍の背後を突いて挟撃しこれを破った。しかし敗走する曹操を追撃する際、伏兵にかかって両軍とも敗れた。翌年、張繍は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。


建安5年(200年)、官渡の戦いに際して劉表は袁紹から救援を要請されるが、長沙太守の張羨が反乱を起こしたことで彼を討つべく自ら出征したため、袁紹に援軍を送らなかった。その後、張羨は病死し子の張懌が反乱を続けたが、劉表は反乱を鎮圧し、長江の南岸を勢力圏に組み入れた。この時、家臣達から袁紹ではなく曹操に味方するよう進言されたが、これを拒否した。


建安6年(201年)、汝南から劉備が身を寄せて来ると、劉表はこれを受け入れた。劉表は劉備を新野に駐屯させ、曹操への備えとした。


建安13年(208年)、曹操が荊州に侵攻を開始。だが、劉表は曹操が荊州入りする直前に病死した。死後、長男の劉琦ではなく次男の劉琮が家督を継いだが、蔡瑁らの勧めもあり曹操に降伏してしまった。


三国志演義編集

おおよそは正史通りだが、劉備が荊州に身を寄せた時の話がよく描かれている。劉備は同族であるため信用に置いており、後継者についても話していたため、これが蔡瑁達に劉備への不信感と焦りを生むこととなる。

病で長くないと悟ると、劉備の薦めもあって劉琦を家督の後継にする遺言書を作ったが、それを知った蔡瑁と蒯越によって遺言書を偽造されて劉琮が家督を継ぐこととなる(劉備に荊州を託そうとしたが、息子たちを差し置いて存続することで世間から非難を受けることを懸念した劉備に固辞される)。



関連タグ編集

三国志

蔡夫人 劉琦 劉琮 劉備

黄祖 蔡瑁 蒯良 蒯越

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