概要
荊州刺史・劉表の配下で、江夏太守。
長年、孫一族と抗争していた間柄。
191年、袁術から劉表討伐の命を受けた孫堅が侵攻を開始したことで、黄祖は劉表の命を受けて樊城へ赴きを迎え撃とうとした。しかし、黄祖はあっけなく大敗し樊城は陥落、黄祖は襄陽に逃走し、追撃した孫堅はそのまま襄陽城を包囲した。
劉表は兵力を補充するために黄祖に兵士の徴用を命じ、黄祖は夜に紛れて襄陽城を脱出すると、密かに兵士をかき集めた。しかし、孫堅には見抜かれて襲撃を受け、黄祖は襄陽近辺にある峴山に隠れこんだ。孫堅は自ら先頭に立って黄祖を追撃したが、黄祖の部下が放った矢が命中してそのまま孫堅は戦死した(配下の呂公が落とした石に当たって即死したという説もある)。
これにより孫堅軍は瓦解し、荊州を守り抜いた。
これ以降、黄祖は孫堅の仇として、孫一族に恨まれることとなり、幾度も抗争を繰り広げることとなる。
後に息子の黄射が禰衡と友人となり、黄射の仲介で禰衡と出会った。禰衡をはじめ高く評価したが、次第に禰衡が傲慢な態度をとるようになったため、遂に堪忍袋の緒が切れて禰衡を殺してしまう。だが、黄射は禰衡の死に嘆き、後に黄祖も彼を殺したことを悔いていた。
199年、孫堅の長男・孫策と交戦した劉勲の救援要請に応じ、黄射に水軍五千を与えて派遣したが、劉勲は敗れて曹操に帰順したので黄射は帰還した。劉勲の兵を吸収した孫策が夏口に進軍し、迎え撃ったが大敗し、黄祖の妻子である男女7人が捕虜となった。
203年、孫堅の次男・孫権に敗北して撤退した際、食客の甘寧が呉将・凌操(凌統の父)を射殺した。しかし黄祖は、甘寧を軽視しており、都督の蘇飛の計らいによって甘寧は孫権の下に亡命した。
208年、再び孫権が来襲し、凌統の猛攻によって江夏城は陥落した。水軍都督・陳就も呂蒙に斬首され、陳就の死を知った黄祖は身一つで逃亡したが、敵に追い付かれ戦死した。
黄祖の戦死により、孫一族は孫堅の死から実に17年越しに敵討ちを果たした。
『三国志演義』では、禰衡に「あなたは社の神だ。供え物や賽銭ばかりとって、他人には何の利益も与えていない」と罵られたことに激怒して斬首している。最期は甘寧に討ち取られたことになっている。