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概要編集

の元勲である夏侯惇の次男。長兄に夏侯充、弟に夏侯子臧夏侯子江。正室は曹操の娘の清河長公主。従父に夏侯淵


曹丕曹植による曹操の後継争いでは、曹丕に積極的に味方し曹植を支持する楊脩らと対立した。

曹丕のお気に入りとなったこともあり曹丕の姉・清河長公主(曹丕の長兄・曹昂の同母妹)を娶った。219年に夏侯淵が漢中で黄忠法正に敗れ戦死したため後任の将軍として長安に駐屯した。

翌220年、夏侯惇が病死。爵位は夏侯充が継いだが、夏侯楙は父の生前時から既に別の爵位を得ており、別家を起こしていた。

魏王朝が発足してからは安西将軍や鎮東将軍を歴任し軍の指揮を任されていたが、これといった戦歴はあまり無い。性格は臆病で武略に生まれつき欠け、吝嗇かつ好色で金儲けを好んだと酷評されている。

将軍としては力量不足と看做されのち洛陽に召喚され、武官から文官に転じ尚書に任じられたが、文官としての事績も無い。また、この頃から多くの娼妓を囲っていたため、清河長公主との関係が悪化、一方で弟達が日頃から無礼な振る舞いを何度も叱責したことで弟達との仲も悪化。弟達は夏侯楙の罪を偽装して、清河長公主も同調し罪状を当時の皇帝である甥の曹叡に上奏した。

曹丕と違い夏侯楙を嫌っていたため、夏侯楙を逮捕し処刑されることになったが、段黙が弁護したため何とか処刑を免れた。ちなみにこの件は清河長公主や夏侯楙の弟たちによる誣告だったことが判明したが、公主たちも罪に問われなかった。


フィクションでの夏侯楙編集

三国志演義編集

演義では夏侯淵の子となっている。夏侯淵が戦死したことで憐れんだ曹操によって、(演義では子が居なかった)夏侯惇の養子となったという設定になっている。

演義では正史よりもさらに暗愚な武将として描かれている。

諸葛亮が北伐を起こすと、曹叡はそれを迎撃する軍の総大将に誰を任命するか周りに問うと、夏侯楙は自ら総大将を名乗り出た。だが、夏侯楙に実戦経験が無いことを知っている重臣達は難色を示すも、父の元で兵法を学んだとして強引に総大将となって出陣する。

夏侯楙は、涼州の韓徳などの諸将を従え、異民族の西羌の援軍の手を借りる。だが、緒戦から押されながらも一時的に趙雲を追い詰めたりしたが、諸葛亮が出て来るとにいいようにあしらわれ王平に捕縛される。その後も諸葛亮の掌で転がされ、を支えることとなる名将・姜維が寝返ることとなる。最後は姜維の策で味方を疑うようになったことで謀反を起こされ、天水太守の馬遵と共に羌族の土地へ逃げ、それ以降は魏に帰らないことになっており、物語から退場する。


その後、夏侯覇らが司馬懿の推挙を得て対蜀戦に同行することになったが、最初は夏侯楙のこともあり曹叡から懐疑的に見られたが何の問題もなかった

尤も、その夏侯覇も曹叡死後に発生した司馬懿と曹爽の権力争い(及び郭淮との確執)もあり蜀に降るのだが…


関連タグ編集

三国志 曹魏

夏侯惇 夏侯淵


趙括春秋戦国時代のの親の七光りを持つ将軍。実戦経験の無さを敵国范雎白起に目を付けられた結果、自らの戦死と趙兵40万人の皆殺しという最悪な結果をもたらす。

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