楊脩
ようしゅう
「楊修」とも。字は徳祖(とくそ)。熹平4年(175年)生まれ。建安24年(219年)没。『三国志』魏志「曹植伝」に記載あり。ファンの間では有名な「鶏肋(鶏のあばら骨)」の語源になった人物の一人(元は曹操の呟きからであるため)。
荀彧や郭嘉も目じゃないくらいの類稀な幅広い才能を持った非常に優秀な文官であり、その文才も一目見ただけで名作ととらえられるほどのものであったといわれ、しかも、三国志一の毒舌家で他者をゴミ扱いする事で有名な禰衡も彼の文章を一目見ただけでその天才ぶりを大絶賛したほどであった。山積みになっていた軍事や内政の課題を激務ながら「いなした」ことで曹操に気に入られ、楊脩と親交を結ぼうとする者も後を絶たないほどの人気者であったが、楊脩自身は特に曹植と友好的だった。
しかし、曹操に愛されたその才能も次第に危険視され、悲劇的な結末を迎えることは知る由もなかった。建安24年(219年)、曹操の後継者争いの傍ら、曹操は漢中にて劉備との持久戦が続き、曹操が上の空で言った「鶏肋」という言葉を聞き取った楊脩は、「鶏肋(鶏のあばら骨)は食べても腹の足しになるほど肉がついてないが、かといって捨てがたい」、つまり、「漢中は惜しいが、今こそ撤退するのがベスト」という意味だと解き、兵たちに撤退の準備を命じ、同年の夏5月に曹操はそのとおりに撤退した。
上記の鶏肋の件が災いしてか、同年秋に処刑された。
楊脩が処刑された理由は、様々な考察がなされており、はっきりとはしていない。
曹操を悪役として描いているためか、劉備との漢中での持久戦で夏侯惇が曹操に指示を受けに来た際、曹操が途方に暮れながら鶏のスープを食していた際、「鶏肋だ(ないしは「鶏のあばら骨だ」)」と言ったのをそれが命令だと勘違いして兵に「皆の者、鶏肋だ」と伝令してしまう。「鶏肋」と言われても兵士たちは分かるはずもなく、そこで楊脩が読み取り、史実のように撤退の準備を進めていた。しかし、曹操は「鶏肋は撤退の意味ではない!」と怒り、楊脩は処刑されてしまう。しかし、そのまま劉備に攻め入っても長い戦いによる兵士たちの疲弊により損害を多く出してしまった上に曹操自身も怪我を負ってしまい、「楊脩の言うとおりにしていれば……」と後悔し、処刑した楊脩の遺体は丁寧に埋葬された。
基本的な立ち位置は演義および吉川英治による小説と同じだが、自身の才能を鼻にかける嫌味な性格であり、曹操からも嫌われている。最期の描写も演義と同じ。