概要
字は威公。荊州襄陽郡の人。
諸葛亮の北伐時、その幕僚として重要な任務を担当した。
活躍
元は曹操の部下だった傅羣に仕えていたが、後に関羽の元に走る。劉備と出会った際には、政治や軍事について話し合って意気投合し、出世するも、そこで人付き合いのトラブルを起こし、閑職に左遷となる。
劉備の死後、諸葛亮は楊儀の才能を評価し、自らの幕僚に加える。兵站や部隊編成に才を発揮し、諸葛亮の命令を滞りなく進める。
一方で、楊儀は狭量で自分の才を鼻にかけるところがあり、人望がなかった。特に、魏延とは犬猿の仲であり、顔を合わせるたびにいがみ合う有様であった。両者の諍いを仲裁するのは、費禕の役目だった。
諸葛亮はこのことに頭を痛めていたが、人材に乏しい蜀に、彼らの代わりはいなかったため、どうすることもできなかった。それでも、諸葛亮が生きている間は、二人は反目しながらも、互いに仕事をこなしていた。
諸葛亮が五丈原の戦場で陣没すると、二人の不満は一気に吹き出す。諸葛亮の遺言は、全軍撤退であり、楊儀はその遺言を守ろうとし、魏延に殿(しんがり)を要請するも、魏延は楊儀からの撤退の要請に疑念を抱き、反発。眼の前に魏軍がいるにもかかわらず、自らの部隊だけさっさと撤退してしまう。おまけに、楊儀が蜀に帰れないように、帰り道の桟道を焼き落とす暴挙に出る。
魏延も楊儀も、互いに漢中(蜀の首都)にいる劉禅に上奏文を送り、互いに「魏延が謀反を起こした」「楊儀が謀反を起こした」と言い合う有様となる。諸葛亮が死んでまだ間もないというのに、互いに相争う前線の様子に、劉禅は唖然となるも、とにかく事態を収集しようと、家臣にどちらが正しいか問うた。劉禅の元に残っていた董允や蒋琬は、楊儀の上奏を支持した。結果、魏延は反逆者となった(魏延自身に国に歯向かうつもりがあったかは不明であるが、その行動は反逆者扱いされても文句が言えないものであった)。
楊儀はなんとか桟道を立て直して魏延軍と相対する。楊儀は王平を魏延に当たらせ、王平は「諸葛亮のご遺体がまだ冷たくなっていないのに、お前たちは何をしているのか」と魏延軍を一括。兵は逃散してしまい、孤立無援となった魏延は、馬岱によって討たれた。
楊儀は魏延の首を踏みつけ「庸奴復能作悪不(この間抜け、もう一度悪いことができるならしてみやがれ)」と言ったという。魏延の三族は皆殺しになった。
最後
楊儀は長年、諸葛亮の右腕として働いた自負があり、諸葛亮の後継には自分が相応しいと思っていた。しかし、楊儀の狭量さを問題視していた諸葛亮は、生前から後継に蒋琬を指名しており、楊儀は名誉職だけとなってしまった。
楊儀は蒋琬について、経歴も実力も「自分に劣る」と思っていたため、この人事に大いに不満と持つ(実際、諸葛亮死去時の序列では、蔣琬は楊儀より下であった)。なだめる費禕に対して、楊儀はついうっかり「諸葛亮が死んだ時、魏についていたら、こんな風に落ちぶれる事はなかった」と愚痴を言ってしまう。これが明るみに出て、楊儀は庶民に落とされる。さらにそこでも人付き合いでトラブルを起こし、ついに逮捕されて獄中で自殺した。
登場作品
『横山三国志』
あまり目立たないが、史実そのままの役どころで登場する。魏延の死後、蒋琬が自分を差し置いて取り立てられたことに納得いかず、「今なら魏延の気持ちがよく分かる」「魏に下っていれば」と愚痴を言う。ただ、その愚痴は費禕に直接言うのではなく、一人酒の席でふと言ってしまったものであった。しかし、それを召使いに聞かれており、召使いは費禕に注進し、それで明るみに出る流れとなっている。
また、人付き合いでのトラブルではなく、庶民に落とされたことを恥じて自殺したことになっている。