中国三国時代の蜀漢の政治家。諸葛亮・費禕・蒋琬とともに蜀漢を支える「四相」あるいは「四英」と称された。
プロフィール
生没年:?〜246年
字:休昭
出身地:荊州南郡枝江県
父:董和
概要
生涯
一族は父・董和の代に益州へ移住している。董和は劉璋に取り立てられ益州太守も務めたが、のち劉備に仕えた。
董允は劉備が魏の曹丕に対抗して蜀漢の皇帝に即位し劉禅を皇太子に立てた際、その側近として抜擢された。その後、夷陵の戦いを経て劉備が死去し、劉禅が即位すると黄門侍郎に任じられた。
諸葛亮は北伐を企図した際、費禕を北伐に参軍させ、董允には宮中の事柄を任せることになった。
董允はよく劉禅を諫言することが多かったため、劉禅は董允を憚るようになった。
宦官の黄皓が劉禅から寵愛を受けるようになったが、董允から厳しく諌められている。このため、董允存命中において黄皓は黄門丞の地位に留まり、悪事を働くことはできなかった。
蒋琬と同じ246年に死去した。
人物
- 死後、黄皓に讒言され劉禅に疎まれたという。董允の没後、劉禅を諫め黄皓の専横を防ぐ人物は現れず、後に黄皓は政治を壟断して国を滅ぼすに至ってしまう。
- 父・董和は董允と費禕のどちらが優れているか測りかねていたが、許靖の子の葬儀の際に二人を試して費禕の方が優れていると思ったと言う。
- 尚書令だった費禕が蒋琬の後任として大将軍になったため、後任の尚書令になった。董允は費禕の仕事ぶりを真似るもたちまち滞り費禕の事務処理能力の高さを慨嘆したとされる。